通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第9節 労働運動の興隆と衰退
4 労働争議と無産政党の結成

函館交通争議の始まり

政治的高揚と無産政党の結成

函館第1回メーデー

労農党函館支部の結成

労働争議の拡がりと第2次水電争議

水電買収問題

漁業労働者問題

警察の介入

労働争議の拡がりと第2次水電争議   P1081−P1084

 大正15年、初めての函館でのメーデーの高揚に刺激されるかのようにこの年から昭和初期にかけて労働争議が各職場に広がり始めた。大正15年末から昭和2年初めにかけて三大争議が起きた。その内容はタバコを飲んでいたことを理由に4名が首切りとなった函館商事千代ヶ岱ゴム工場争議、浅野セメント上磯分工場の降灰問題、積立金不払問題を起こした函館キザミ昆布同業組合の争議である。

ビラの内容を掲載した記事(昭和2年1月23日付「函日」)
 この内、函館商事千代ヶ岱ゴム工場争議は昭和2年1月、健康保険料の会社負担と休業中の休業手当を要求して行われたもので、職工200名の内、半数が女性で占められていた。函館商事会社工場争議団は女工団を中心に化粧品などの行商を行い、「市民諸君に訴う」などの宣伝ビラの配布と演説会での女性弁士の登場など、市民から注目された争議であった(昭和2年1月23日付「函日」)。また、労働者の要求の中に「健康保険料制度」に関わる内容のものもあり、道内で初めての争点として闘われたことで注目できる。この争議は同年1月29日、「会社の都合による臨時休業の場合は日給の六割支給」「健康保険料金は、昭和二年一月分に限り会社の全額負担」の覚え書きを労使双方が交わして終結した。
 また、浅野セメントの降灰問題は函館地方では比較的少なかった農民を中心とした運動である。この時期、全道的には労働運動と並んで農民運動が盛んであった。活発に運動が展開された地域は道内では内陸の水田・畑作地帯が中心で、特に巨大地主の多かった北海道は蜂須賀争議をはじめとして大規模な争議が頻発し、農民組合の組織化も進んだ地方であった。こうした中で上磯の降灰問題は、函館地方の農民運動の事例と「北海道における公害闘争の先駆」として有名である(『北海道農民組合運動五十年史』)。
 頻発する争議の中でもしばしば起こったのは水電関係の争議であった。大正15年のメーデー前の4月5日、水電交誼会大会が開催され、大会では議長に加賀谷貞蔵(昭和2年6月当時、函館水電交誼会執行委員長)を選出し、春(日か)野鉄也(大正14年当時、函館水電交誼会会長)委員長が以前からの懸案事項である待遇改善の経過について報告した。メーデーで示威を示した水電交誼会では待遇改善要求を以前から提出してきたか会社側の拒否の態度が続いたので、大正15年5月4日、「一、退職給与の件 一年勤続は十五日、後一年毎に十日分を増すこと。二、賞与の件 前約を履行して一ヶ月半を標準とすること。三、昇給の件 昇給は年二回とし二円以下のものは十五銭、□(不明)円以上のものは十銭宛とする。但し最低一円四拾銭最高五拾銭とする事」を内容とする要求書を提出した(「無産者新聞」第28号)。当時の模様を伝える1枚の貴重なガリ版刷りの「檄文」(下図参照)が法政大学大原社会問題研究所に所蔵されているので紹介しておく。

法政大学大原社会問題研究所蔵「函館関係資料」より
 会社側に要求を拒否された交誼会では、函館地方労働組合協議会の支援を受け「怠業」を行った。この結果、会社側は労働組合幹部27名を解雇したため、交誼会争議団本部は本格的なストライキに入った。また、5月10日、協議会は「会社が飽迄拒否すれば、同情罷業を敢行する」ことを表明した。会社側は妥協案を提示したが、実施時期を示さなかったために交渉は決裂した。
 こうした膠着状態の中で警察は13日に高松宮の来函予定を理由に、争議の一時中止を命令、さらに「不穏の兆」がみられるとして350余名を検束、内4名を起訴し争議団に解散を命じた。警察側は検束者に対し「争議を続行すれば永久に検束する」と争議団に加わらないことを条件に帰宅を許した。この結果、争議の継続は無理となり、5月20日会社側は27名分2700円の解雇手当てを「家族に付与す」ることを条件に争議は終結した(「無産者新聞」第30号)。
 この争議が何故、交誼会側の敗北に終わったのか。「在函 鶴田生」と称する一労働者が「無産者新聞」第32号に「函館水電の労資戦を顧みて」と題する投書を寄せている。鶴田によれば、第一に、函館の財閥を網羅する水電会社は市内で発行される新聞社の株主でもあることから、これらの「御用新聞」を通して「争議団は市民の敵」など「争議団に不利なる宣伝」を行った。第二に、交誼会の組合員の急速な拡大の結果、「組合員の統制に齟齬を来すべき多くの欠陥」があったために「馘首検束」が続く中で組織の結束が取れなかったこと。第三に、一地方の局部的な争議とはいえ中央の労働組合幹部の適切な支援と全国的な応援態勢の必要性を挙げている。
 この争議は労働戦線の左派と右派をめぐる路線問題とも関わっていた。争議の敗北を「右派の術作によるもの」とする左派は以後、合同労組、造船木工組合内において左派の指導権確立に力を注いだ。水電交誼会は組合の穏便な発展を目指し、先鋭化した運動を避けるようになった(『新北海道史』第5巻)。これはまた、労働運動の激化にともなう労資対立が全国的に熾烈になってきたことの反映を示す事例であろう。事実、この後警察の取締が一段と強化され社会運動の展開にとって大きな障壁となった。
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