通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
||
第2章 20万都市への飛躍とその現実 第9節 労働運動の興隆と衰退 漁業労働者問題 |
漁業労働者問題 P1086−P1087 函館における労働者の内、組織化が遅れていたのは漁業関係労働者である。後年、小林多喜二が描いた『蟹工船』の世界そのままの事件が実際に起きていた。その一つとして蟹工船秩父丸問題がある。 秩父丸は大正15年4月、カムチャツカ沖出漁中に防雪風に襲われ難破し、376名の乗組員中181名が命を落とした。このため全国から1万5000円余の義損金が寄せられた。秩父丸の当事者である北東貿易会社は弔意金として給料3か月分と「九一金」(生産効率を高めるために漁場の出来高に応じて支払われた手当て金)のほか、特別功労金を支給すると発表したがいまだに全額を支給していないこと、また義捐金取扱者の蟹工船会社の組織である蟹工船漁業水産組合はその一部しか犠牲者に支払っていないなど、漁業労働者の無権利状態が問題となった。 労農党函館支部では「封建的雇用契約の撤廃、九一金撤廃全廃と給料の値上、障害疾病の保障、災厄死亡者遺族扶助の徹底、漁夫供給組合の労働者管理」などのスローガンを掲げ、漁業労働者の組織化に乗り出した。 昭和2年9月18日、労農党函館支部の後援の下に漁業労働問題批判演説会が恵比須劇場を会場に開催された。弁士は博愛丸漁夫小泉義次、福一丸漁夫寺山菊次、英航丸船頭佐藤栄太郎、同漁夫福田太郎、労働農民党鈴木治亮である(9月18日付「函新」)。当時、問題となっていたのは先の秩父丸事件と北辰漁業会社蟹工船英航丸漁夫の賃金制度確立などの待遇改善を要求するストライキの発生であった。 こうして9月25日、北海漁業労働組合の創立大会が英航丸漁夫70余名を中心に組織された。法政大学大原社会問題研究所蔵の「創立大会宣言」(下図参照)が当時の様子を伝えているので紹介する。役員には、主事−掘幸雄、執行−委員山田善八郎・山口佐太郎・松村吾一・村上由太郎・平井庄吉が選ばれ、事務所は鶴岡町10番地に置かれた。
|
|
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第3巻第5編目次 | 前へ | 次へ |