通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第9節 労働運動の興隆と衰退 無産運動と政治意識 |
無産運動と政治意識 P1072−P1073 社会・労働運動の高揚は同時に労働者の政治意識を高めた。函館では大正13年5月1日、メーデーを記念して無産青年同盟が発会式を行っている。これは東京無産青年同盟の発足(大正14年11月結成)より早く、また無産青年同盟の全国組織である全日本無産青年同盟の創立は大正15年8月であることからして、函館での若き無産青年たちの先進的な活動は注目できる。函館での無産青年同盟の発会式は、西川町の事務所において開かれ「女学生・職業夫人」数名を含む150名が出席している。発会式では、鈴木治亮(明治31年東京生、函館港内労働組合常任幹事、労農党函館支部書記長。山岸一章『不屈の青春』)が座長席につき、武内清(明治35年函館生、函館水電車掌、昭和20年共産党北海道委員会書記長。「武内清の思い出」刊行委員会編『武内清の思い出』)、青森から応援にかけつけた大沢久明らが演説を行った。 決議文では「五月一日は吾々無産階級が賃銀奴隷から解放され、自由社会に到達すべき行進の祝日である、この階級戦の戦線に参加し、更に全日本及全世界の無産階級の完全なる団結を期す為め、深刻なる階級意識に燃ゆる無産青年の集合、即ち本同盟発会式を以て函館における『第一回メーデー』とす」と述べられている(大正13年5月2日付「函日」)。ただし、函館における正式の大衆的なメーデーは2年後の大正15年5月である(後述)が、この無産青年同盟発会式を「メーデー」として祝ったのは道内ではこれが最初であろう。 函館のこの後の社会運動の特徴は20代から30代前半の若い世代によって担われていたことであるが、彼等に影響を与えた人物に金田日出男(明治22年、山形生)がいる。金田は「乞食坊主」と自ら称し一種の在家宗教である聖労院を開き、辻演説を行っていた。金田のもとには鈴木治亮、武内清、村上由(明治34年生、函館合同労組執行委員。『北海道労働運動ものがたり−私の歩んだ四十年−』)らが出入りし、無産青年運動的なものが早くから芽生えていた。 また、無産青年同盟の組織と相前後して大正13年の夏頃から鈴木治亮、武内清らは分散する未組織労働者の組織化に奔走していた。なお、この頃、鈴木、武内と共に青森出身の袴田里見(明治37年生。日本共産党副委員長、後に除名)が函館で一緒に活動している。この組織化に当たって中心的役割を果たしたのは鈴木治亮である。鈴木はすでに大正10年、社会問題研究会を組織するなど、社会主義運動に関心を示し、そのため国鉄函館駅員を首になった。また、函館水電車掌の武内は大正12年秋、労働時間延長反対を掲げて行なわれたストライキを指導したことを理由に解雇された。 こうした中で鈴木、武内らの労働運動家に加えて、インテリ層の参加、協力もあった。早稲田大学出身で英語教師をしていた中川清(明治33年函館生、労農党函館支部書記、大正14年12月の農民労働党の創立大会に参加)、小樽高商(現小樽商科大学)で作家の小林多喜二と同期の乗富道夫(明治36年生、安田銀行函館支店勤務、産業労働調査員函館支所を担当)らがマルクス主義学習のチューターとして協力していた。 |
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