通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第9節 労働運動の興隆と衰退 函館最初の労働組合 |
函館最初の労働組合 P1070−P1071
高島らの組織した組合は「木工職組合」とはいうが、この組合は初期の友愛会的組織とは性格を異にする労働組合であったようである。そのことは次の報道から読み取る事ができる。 大正8年3月16日の「函館毎日新聞」によれば「造船木工職が結束して組合組織」「労働問題に覚醒して労資の弊害を矯正せんと」の見出しに続き、「区内の造船木工職人百六十四名は函館造船木工職組合を組織して其規約の認可を道庁長官に出願中である。組合準則によつたのは無論であるが、其趣意書の一節を見ると大いに時代の労働問題に触れて居る。曰く我等『国際労働会議は今正に米国華盛頓に於て開会せられ、われ等同業者の如き資本に付随して労働的工業に従事し現代を終らんとするものに痛切に覚醒を促しつつあり』、曰く『我等同業者は現在将来に鑑がみ同盟結束して労資の関係に於ける弊害を矯正し云々』とその期する所は尋常一様の組合ではないらしい」と述べられている。 ここから、階級的視点をもった労働運動の展開を意図した労働組合が登場してきたことをうかがいい知ることができるし、函館の労働組合運動が先進的な性格を帯びていたと評価できる。 こうした労働者の階級意識の高揚は全国的には、大正9年5月2日(この日は日曜日)、東京上野公園における日本最初のメーデーとして結実していった。そしてこの頃から函館では労働争議が頻発し、同時に労働組合が次々と結成されていった。主な争議を取り出すと、大正9年1月8日、造船大工と家大工など210余名が組織する船大工同盟は、従来の1日10時間制(内昼食30分)、賃金2円70銭の労働条件に対し、9時間制、賃金3円の昇給を要求し、会社側は9時間制(昼食30分は別)、賃金2円90銭で妥協を求めた。浜岡造船所のみ船大工同盟の基本要求を認めたが、函館造船所堤造船工場、船矢造船所、大野造船所など20か所の工場で大工達はストライキに入った。造船主側は2月21日に総会を開き、1日10時間制(内昼食30分)、賃金3円で妥協することになり、船大工同盟側には異論もあったが受け入れた(2月23日付「函毎」)。また同年2月、函館造船木工職組合は「八時間制、日給三円」を要求し、「九時間半、日給三円」を実現した。しかし、夏から秋にかけての不況により造船業界は休業状態となったことから会社側は日給を「二円八十銭」に下げ、さらに12月には「二円三十銭」まで引き下げた。これに対し造船木工職組合は、その復旧を要求したが、会社側に拒絶されたためストライキとなった(大正10年1月12日付「函日」)。 他には、大正10年7月13日には函館製材職工組合が結成、翌11年6月15日には函館印刷工親工会が結成された。同会はアナーキスト系の全国労働組合自由聯合に属した(奥山亮『新考北海道史年表』)。 |
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