通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 8 大正・昭和前期の函館にみる働く女たちの実相 2 昭和前期 路面電車の車掌・運転手 |
路面電車の車掌・運転手 P1016−P1017 昭和13(1938)年末、函館乗合自動車の車掌は31人で全員女性であった(函館市交通局『市電五十年の歩み』)。彼女たちの乗っていたバス27両中ガソリン車は12両だったが、ガソリン規制は強化されて戦争勃発直前の昭和16年夏にはガソリンの配給は停止となり、バスは木炭車か薪車だけとなった。
職場から男性激減という厳しい現実の中で″戦時下の交通は女子の手で″と持ち上げられ、13、4歳から20歳、24歳ころまでの未婚の、少なくとも延べ200人前後の女性が車掌や運転手として戦争が終わるまで働いた。当時の車内は暖房はなく、車両前後の運転席や車掌席は雨も雪も吹きさらし状態であった。一旦乗務すれば1時間20分は乗っていなければならず、生理休暇はなかった。勤務は7日出て1日休むというパターンで、その7日も一発(朝6時〜午後3時)、中帰り(朝6時に出て9時過ぎ帰りまた3時頃出勤し夜7時帰り)、遅出(3時〜夜中)とあり、灯火管制下の真っ暗な夜の帰り道は怖かったと語った人もいた。給料は日給月給で勤務評定が加味されて、まちまちだったようだ(表2−220参照)。交通局には他に内勤の事務員、機械工や定夫(車内掃除や洗車をする人)として働く女性、昭和19年以降は女子挺身隊員として女学校やドックからやって来た人などもいて待遇も多様であった。同19年2月には第4奉公隊特別輸送がバスから電車に変更されて、柏木町から函館ドックに毎日往復輸送が始まり、捕虜や刑務所の囚人を運んだと語る人、「夜中一二時を過ぎてから缶詰を…亀田から駅前・大門回りで湯川まで電車二、三台で運びました。軍の食料と思うけど」と話した車掌もいた。「後ろに番号を打ってあったらドックの捕虜と同じ」とからかわれながら、冬、国防色の制服を着た女性車掌・女性運転手たちの電車は、市民の足だけではなくなっていた(『道南女性史』6)。
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