通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

8 大正・昭和前期の函館にみる働く女たちの実相

2 昭和前期

昭和初期の新しい職業と就職戦線

労働運動に参加する女性

電話交換手の職場改善運動

女工・出稼ぎ女工たち

各種婦人団体に集う女性たち

遊廓・カフェーなどで働く女性たち

銃後で働く若い女性

路面電車の車掌・運転手

国鉄で働く女性

路面電車の車掌・運転手   P1016−P1017

 昭和13(1938)年末、函館乗合自動車の車掌は31人で全員女性であった(函館市交通局『市電五十年の歩み』)。彼女たちの乗っていたバス27両中ガソリン車は12両だったが、ガソリン規制は強化されて戦争勃発直前の昭和16年夏にはガソリンの配給は停止となり、バスは木炭車か薪車だけとなった。

第1期の女性車掌たち(高島勝子氏蔵)
 このような状況下で電車の役割は重要となり、昭和15年秋″チンチン電車″として親しまれた函館の路面電車に初めて女性車掌が登場した。9月15日の採用試験には90人前後の人が応募し、59人を採用、25日から制服着用の上実地訓練に入り、10月1日から本格的に市中に乗り出すことになった(昭和15年10月1日付「函新」)。この時18歳で車掌になった高島(旧姓平本)勝子は「男の人は毎日のように出征して減っていきました。でも女の車掌は次々と入って来たので、私は運転手の試験受けてみないかと言われて…五名が受けて運転免許状をもらったのは私と池田なつさんと和田悦子さんの三名でした。一八年ころと思います」(『道南女性史』6)と話している。女性運転手の誕生であった。「市電女運転手座談会」では、9人の女運転手が新しい職場での体験談を語り、市交通局局長は「昨年までは五十名足らずの女子従業員であった…が今年は百名を突破し車掌は全員女子をもって充当し、運転手も続々養成しつつあるので…戦時下の交通は女子の手で確保しようとその実現に向かって進んでいる」(昭和19年9月16日付「道新」)と述べている。
 職場から男性激減という厳しい現実の中で″戦時下の交通は女子の手で″と持ち上げられ、13、4歳から20歳、24歳ころまでの未婚の、少なくとも延べ200人前後の女性が車掌や運転手として戦争が終わるまで働いた。当時の車内は暖房はなく、車両前後の運転席や車掌席は雨も雪も吹きさらし状態であった。一旦乗務すれば1時間20分は乗っていなければならず、生理休暇はなかった。勤務は7日出て1日休むというパターンで、その7日も一発(朝6時〜午後3時)、中帰り(朝6時に出て9時過ぎ帰りまた3時頃出勤し夜7時帰り)、遅出(3時〜夜中)とあり、灯火管制下の真っ暗な夜の帰り道は怖かったと語った人もいた。給料は日給月給で勤務評定が加味されて、まちまちだったようだ(表2−220参照)。交通局には他に内勤の事務員、機械工や定夫(車内掃除や洗車をする人)として働く女性、昭和19年以降は女子挺身隊員として女学校やドックからやって来た人などもいて待遇も多様であった。同19年2月には第4奉公隊特別輸送がバスから電車に変更されて、柏木町から函館ドックに毎日往復輸送が始まり、捕虜や刑務所の囚人を運んだと語る人、「夜中一二時を過ぎてから缶詰を…亀田から駅前・大門回りで湯川まで電車二、三台で運びました。軍の食料と思うけど」と話した車掌もいた。「後ろに番号を打ってあったらドックの捕虜と同じ」とからかわれながら、冬、国防色の制服を着た女性車掌・女性運転手たちの電車は、市民の足だけではなくなっていた(『道南女性史』6)。
表2−220 ある女子車掌・運転手の賃金表
昭和15年8月
11月
〃 16年2月
8月
〃 17年2月
8月
〃 18年11月
〃 9年3月
9月 1円71銭
〃 20年3月
9月

60銭 見習
80銭 採用
90銭
95銭
1円
1円10銭
1円47銭 この月より市営
1円56銭

1円85銭
1月 依願解傭

(市交通局保管の退職者名簿より作成)
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