通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 8 大正・昭和前期の函館にみる働く女たちの実相 2 昭和前期 各種婦人団体に集う女性たち |
各種婦人団体に集う女性たち P1003 昭和期の各婦人団体について、その成立過程や活動内容などを追ってみよう。北方婦人 P1003−P1004 函館最初の婦人新聞である「北方婦人」が、婦人の覚醒を願って創刊されたのは昭和4年6月、世界恐慌が始まる直前の、巷に失業者が増え続いている不景気の真っ只中だった。創刊には新聞社勤務の行友憲一・大渕幸三およびその同僚らの賛助を受けたとはいえ、紙面作りはすべて女性が担当した。創立時から参加した土井多紀子は、与謝野晶子を師と仰ぐ歌人で、当時函館の歌壇で活躍していた。昼は森永製菓の事務員として働き、夜間や休日を利用して取材や記事を作成し、さらに同人を迎え順次仲間も増やしていった。彼女の苦労が察せられる。創刊時50人ほどだった読者も1年後藤岡道子(本名川崎ヤエ、当時教師)を編集人に迎えた頃には1000余人に増え、松前・八雲方面にまで定期購読者をもち、一時は青森・秋田にまで支部を置いた。初期の読者の「上流社会の奥様の生活に興味はない、記事があまりにブルジョア気分に偏している」という反響に誠実に応えて、徐々に編集方針を変えて行った。タイトルだけを拾ってみても、「函館の婦人に促したいこと、特に若い女性に対して」・市川房枝の「女を加えた政治が欲しい」・「今年こそ婦選を実現するよう」・丸山優子(「北方婦人」同人)の「総選挙に際して函館の婦人に望む」等々の文面からも婦人公民権・参政権獲得への期待がうかがわれる。現実には女性には国政への参政権どころか、地方政治参加への婦人公民権ですら衆議院本会議で初めて可決(昭和5年5月)したものの貴族院では審議未了で終わっているのである。しかし粘り強く紙面上には「握り潰された婦人公民権について」・「来議会に提出する婦人公民権案」などのタイトルが目につく。こうした婦選問題への関心は、同5年11月、北方婦人新聞社による「函館婦人のための婦選研究会」設置へとつながって行ったのである。さらにより広い関心に応えようと、新聞発行以外に事業部と代理部を設置し女性一般の参加も企画したのだが、創立から1年10か月後の昭和6年3月、24号で廃刊となった(6年3月17日から「函毎」に「家庭・婦人」欄登場)。廃刊号で丸山優子(筒井優、丸山は旧姓。当時、函館郵便局通信事務員)は函館の女性について「…社会的に進出せん為には事業部の設置、北方婦人連盟、婦選研究会等を組織し、私共婦人の向上の為に啓蒙的に随分呼びかけてまいりました。さりながら笛吹けど踊らざるありさまに、私共は相当苦心しました…同じ婦人団体でありましてもその場すごしのお座なりの集会にはお集まりになり好くおしゃべりして居られますが、それが一歩進んで重要な問題に触れ、それが可決を決議するに当面しては、大概は沈黙て居られるのを…意思表示を明瞭にしないというところは、何とひきょうな点ではないでしょうか…」と訴えている。 函館連合婦人会 P1004−P1005 函館女性は、重要な問題になると寡黙で消極的であると「北方婦人」が廃刊号で書いた頃、家庭教育振興の協議会が文部省の主唱により公会堂で開かれた。この席で文部省側は集まった「市内各婦人団体の代表達…女子教育の代表者…婦人の有力者…四十余名」(昭和6年2月17日付「函新」)を前に連合的な婦人団体の樹立に向けての経路を語った。翌3月6日午後1時から旭町女子高等小学校において函館連合婦人会発会式が挙行された。発会式は開会の辞・君が代奏楽・一同合唱後、会衆を前にまず会長坂本千代子(市長夫人)が勅語奉読してから式辞を述べ、続いて文部大臣祝辞・大日本連合婦人会理事長祝辞と続き、万歳三唱して閉会となった。引続き、母の日会が開かれ、市連合女子青年団団長(市長兼任)式辞のあと副団長の市田キヨ(当時函館高女教諭、女教員会顧問)が講演、団員の三浦キセ(市役所職員、女教員会名誉会員)が所感を述べて3時に終了した。坂本会長が「文部省の御方針に従いまして…多数婦人団体と皆様方の御尽力により」(3月6日付「函毎」)組織したと述べている様に、2000人近くの人々が日中集ったが、函館女性の自発的な会ではなかった。母の日会と共に地久節(皇后の誕生日)を祝して全国一斉に開かれた最初の官製単一統合婦人団体である大日本連合婦人会が成立したわけである。この間の事情を既に「北方婦人」で藤岡道子はズバリと文部省の肝入りで組織されたと指摘し、「馳せ参じる代表者の顔触れを見るに仏教婦人会あり、火防衛生婦人会あり、女教員会あり、矯風(ママ)会あり、愛婦支部あり、女子青年団あり、有閑夫人階級夫人有志あり」(23号)と書いている。大正デモクラシーの時代に組織され、女教員の地位の向上などを目指した女教員会であったが、その顧問と名誉会員が母の日会で講演し挨拶する状況になっていた。この函館市連合婦人会は昭和10年5月、招魂社社務所を借りて「識見ある優良なる婦人を養成」するため函館家庭寮を開設した。同寮の綱領は「尊皇愛国ノ誠ヲ…婦徳ヲ磨キ…家庭ヲ齋(ととの)ヘ」(『女性函館』1号)とうたっている。また翌11年1月から連合女子青年団と共に機関誌『女性函館』(編輯兼発行人は函館市役所教育課内三浦キセ)を発行、創刊号で会長の坂本千代子は「家庭教育の振興を図ることが連合婦人会の生命であり…国家の根本」であると述べている。 新興女性会 P1005−P1007 昭和6(1931)年は、知性ある女性の創出をめざした雑誌『婦人公論』の創刊15周年であった。この年5月16日夜、中央公論社が主催した婦人公論読者訪問隊による講演会と原稿展には、若い女性が会場の市民館のホールに溢れていた(昭和6年5月17日付「函新」)。3か月後の8月20日夜、函館新聞社が主催して同じく市民館で開催された市川房枝と石本静枝(現加藤シズエ)の講演会には約700人が集まり大半は女性だったという。連合婦人会の参加人数には及ばないが、座席数約400の市民館は後ろも左右も立ち並ぶ聴衆で盛況だった。まず日本産児調節連盟会長の石本が産児制限運動の現勢について語り、「母性保護・家庭経済の確立・自由的母性の三つを主眼として少なく産んで好く育てよう」(同年8月21日付「函日」)と結んだ。婦選獲得同盟総務理事の市川は、昨年のイギリスの総選挙時の婦人の清き1票の行方を例に、公民権は貴族院で184対62で葬られたけれど、「婦人に公民権・結社権・参政権の三つを与えることは近」(前同紙)いから、一致団結して婦選獲得を後援するようにと結んでいる。この函館の講演会について市川は「終了後臨時に開いた座談会にも十余名の婦人が居残った…雑誌も売切れで五、六名住所を貰って送る事にした程で…函館日日の婦人記者竹中氏を会員にまず獲得したが、尚相当に得られる見込みがついた」(『婦選』昭和6年9月号)と書き、婦選同盟北海道遊説(函館の後22日小樽、23日札幌、24日旭川)で初めて来道し、その初日に接した函館の女性たちの婦選問題への興味と関心の高さを喜んで記している。「北方婦人」では否定された函館の婦人だったが、同じ年、市川は明るい見通しで彼女たちを見ていたことになる。
なお札幌の『婦人公論』読者会白雪会は函館より遅い昭和9年発足だが地道に活動し、女権拡張などの理想をかかげた『婦人公論』が軍部から害あって利なしとされて廃刊(昭和19年3月)に至るのちまで活動を続けている。函館は「新興女性会は会員三名が赤狩りにあい解散を余儀なくされた」(『道南女性史』1)と川崎ヤエは語っている。 キリスト教婦人矯風会函館支部 P1007−P1008 道内でいち早く組織された日本キリスト教婦人矯風会函館支部は、大正2年再編成、大正15年6月25日に再発会式を挙行した。東京本部より久布白落実が応援に来函し、留岡幸助と共に夜、1000人の参加者を前に講演している。昭和初期メーデーに参加した若い職業婦人(既述)に、矯風会は環境も違うブルジョワ的な団体と写ったとしても無理はない。例えば函館支部の歴代支部長のうち、昭和2年には初代渡辺熊四郎の三女渡辺順子が就任、彼女はこの年万国禁酒大会およびアメリカ矯風会大会参加のために渡米している。昭和3年から18年までの支部長は品川米子と佐々辰子の2人が交互に就任している。品川は函館ドック社長夫人であり、矯風会北海道部会長をも務めた佐々辰子は、函館高等水産専門学校校長夫人であり、後述するが愛国婦人会などでも活躍している。
救世軍 P1008−P1009 女紅場は明治初期、函館支庁が中心になって開設された芸娼妓の授産教育施設だったが、私設のものとしては、坂井フタの自由廃業訴訟大審院判決が出た翌明治34(1901)年、「娼婦一四名を収容して更生に尽力していた」函館婦人救済所があった。この婦人救済所の詳細は不明だが、矯風会函館支部とともに救世軍が運営にかかわっていた(『道南女性史』10)。この救世軍に小人数だが参加する女性もいた。松原百合子は「一六歳のころ、『実業の日本』誌上で…救世軍を知り『ときの声』を知り、求めて小隊を訪ねたのが始まりで…昭和三年元旦に救いを受け」入隊している。彼女は結婚し3人目の子を妊娠中の昭和17年6月、キリスト教徒の夫を特高警察に逮捕され、後日「すめらぎの上に神などあるべきと言へる世にして夫捕はれぬ」と歌った女性である。同家庭団副書記だった寺沢光江は「昭和四年の秋、…賛美歌を歌って道行く人に呼びかけていた救世軍の方々を見て…小隊会館の救霊会へ導かれた」と入隊の動機を記している。同時期、小人数ながら他にも何人かの女性がこの救世軍に参加していた(救世軍函館小隊開戦70周年記念誌『道』、松原百合子遺歌集『百葉集』)。函館友の会 P1009−P1010 羽仁もと子夫妻が創刊した家庭婦人のための教育雑誌『婦人之友』読者会は全国に散在していたが、昭和3年3月、函館友の会は北海道では最初に、「全国友の会の第六番目にあたり生まれ出」(昭和6年2月15日付「函新」)た。もと子の著作集を求めた女性を中心に月1回各自の家庭に集まりその月のリーダーによって運営されていたという(前同紙、『友の会の志とその歩み』)。昭和5年の秋には第1回全国大会が東京で開催され、道内では函館から田中寿枝ら3人の会員が参加した(前同紙)。翌年には家庭生活合理化展が東京を皮切りに地方へと巡回し、同年2月、函館友の会は実践高女講堂で不用品交換バザーを開いている(昭和6年2月5日付「北方婦人」、および2月8日付「函日」)。函館友の会の会員数は分からないが、戦後、矯風会函館支部を再建した時田静子によれば、昭和10年ころ、矯風会会員の新庄時子は函館友の会会長でもあったという(前出『函館支部一〇〇年の歩み』)。恐らく両方の会員だった女性はかなりいたと思われる。なお『婦人之友』は『婦人公論』廃刊後も、ページ数は削減されたが羽仁もと子の戦争協力の姿勢(昭和19年4月号論説「撃ちてし止まん」など)を高めることで辛うじて生き延びている。 その他仏教関係の婦人会としては大正期、すでに東西両本願寺の婦人会、高龍寺内の吉祥婦人会、実行寺および常住寺の村雲婦人会、ほかに成田山別院の婦人会、元町別院の婦人会と種々あったが、大正8年には称名寺内に函館明照婦人会が設立されている(大正8年9月19日付「函新」)。 昭和初期、日本全体が不景気で函館も不況のただ中にあったが、「北方婦人」を読む人、婦選同盟会員になった人、『婦人公論』読者会メンバー、『婦人之友』を読む人、矯風会や救世軍又は仏教系の婦人会などに参加する人など、函館の女性は各人の関心や興味に応じてさまざまな集いに参加していた。しかし、「北方婦人」同人として活躍していた丸山優子は廃刊後上京、函館最初の婦選同盟会員であり『婦人公論』読者でもあった婦人記者竹中倭文子は女児を残して急逝した(昭和8年5月21日付「函日」)。同じく『婦人公論』読者会で司会をした菅野キクエが中心になって職場に組織した組合は、既述したようにつぶされ、読者会は解散を余儀なくされた。時代はさらに右傾化していった。 愛国婦人会 P1010−1011 函館の多数の女性を傘下に置いた函館連合婦人会については既述したが、他にも官製の婦人団体の活躍が目立って来た。明治期、日露戦争時の活躍が認められて北海道支部札幌から昇格(規定では各道県1支部)していた愛国婦人会(愛婦と略す)函館支部は、大正7年札幌への合併問題の一蹴に成功して渡辺熊四郎夫人ひで子が支部長に就任した。以来、会員も創立当時の2600人から飛躍的に増加し、大正11年秋から生活改善・副業奨励・廃物利用のバザーなど行う一方、出征軍人遺家族の慰問や救護・災害時の救助・貧困家庭への救済と活動を続け、昭和7年には、私立函館幼稚園の事業一切を引き継ぎ愛婦函館幼稚園と改称して経営も行った。昭和8年7月24日、函館公園での総会には4500人が参加している(函館日日新聞社『函館市誌』、神山茂『函館教育年表』)。昭和12年、愛婦函館支部長には20余年も務めた渡辺ひで子に代わって佐々辰子が就任、その直後に日中戦争が勃発している。翌年の「函館新聞」は「辰子女史を新支部長に迎えた我愛婦函館支部八千名の会員は事変発生以来今や一心同体となり滅私奉公の精神をもって献身的奉公を続けている」(昭和13年6月15日付)と書き、続けて「銃後の護りは先ずその足元から」の見出しで辰子の談話を載せている。愛婦支部長を引き受けた昭和12年佐々は矯風会北海道部会長でもあり、その10月、4つの宣言文に署名したことは既に述べたとおりである。辰子と交替で矯風会支部長を務めていた品川米子も前述の「函館新聞」紙面から愛婦幹事、西村栄子と梅津武古子も愛婦副支部長とあり、他にも矯風会会員で愛婦会員は何人か目に付いた。佐々辰子は、杉並町会(16部135班で構成)の第7部会の副部長でもあり、当時女の部長は函館中の町会に2人しかいなかったというから目立つ存在であったようだ。「班長は女ではやれないという反対論ですが、…女でできないという事はありません。…今こそ女も国家に御奉公すべきで…私は女よ、雄々しく立ち上がれと叫びたいのです」(昭和16年2月7日付「函日」)と語っている。初めに紹介した矯風会活動に愛婦函館支部長、そして町会の副部長、これらは彼女の中では両立していたのだろうか。なお愛婦函館支部は昭和14年9月30日をもって北海道支部所属に組織変更し函館市分会と改称した(昭和14年11月19日付「函新」)。市長夫人であり、函館市連合婦人会長でもある斎藤ツユが分会長となっている。 函館国防婦人会 P1011−P1012 昭和9年3月15日、函館国防婦人会(以下国婦と略す)発会式が日魯講堂で開催され、200人の会員が集い、支部長には山口静江函館要塞司令官夫人が選ばれている。『函館市誌』を見ると会員は2777人で、支部長はじめ理事長や当番幹事などに函館連隊区・重砲兵大隊・憲兵分隊等軍隊関係者が多かった。そして町の至る所に出征軍人を見送る、慰問袋を抱えた国防色制服の愛婦会員や白い割烹着姿の国婦会員が目立っていった。昭和2年レンニー先生の援助で愛の園託児所を創立した清野タニは、昭和10年31歳の若さで国婦高盛町・宇賀浦町の分会長になった時のことを「クリスチャンとして戦争に加担することに矛盾を感じ悩んだが、夫が断り切れず引き受けて来たことなのでやらざるを得なかった。…谷地頭の要塞司令部に行って分会旗と任命書をもらって来た。…分会長の仕事は編み物の講習をしたり、…夜中の一時二時に、在郷軍人から○○さんが出征するという連絡がくると、駆け足で副分会長に知らせた」(『道南女性史』10)と語っている。愛婦および国婦の昭和15年度役員は表2−219のとおりである。
大日本婦人会函館支部 P1012 アジア・太平洋戦争に突入した翌年、17年2月2日、中央では愛国婦人会・大日本連合婦人会・国防婦人会が合同して大日本婦人会(以下日婦と略す)として発足した。これに呼応して6月13日日婦函館支部が新川国民学校にて結成され、支部長には前市長夫人斎藤ツユが任命された。選ばれたのでなく任命された支部長は「婦人総力戦に邁進するため…一致団結してどこまでも必勝の信念をもって…婦人も又国のために殉ずる勇士のような気持ちで奉公」(昭和17年6月13日付「新函館」)と語っている。昭和19年には「決戦必勝道民総決起軍人援護強調運動」(4月7日付「道新」)の強力な担い手として活躍すると報道されている。 |
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