「函館市史」トップ(総目次)
第2章 20万都市への飛躍とその現実
第7節 都市の生活と新しい文化
8 大正・昭和前期の函館にみる働く女たちの実相
2 昭和前期
昭和初期の新しい職業と就職戦線
労働運動に参加する女性
電話交換手の職場改善運動
女工・出稼ぎ女工たち
各種婦人団体に集う女性たち
遊廓・カフェーなどで働く女性たち
銃後で働く若い女性
路面電車の車掌・運転手
国鉄で働く女性
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労働運動に参加する女性 P995−P996
函館最初のメーデーは全市を練る「大示威行列」(大正15年5月1日付「函毎」)と共にはじまり、労働者は団結して意志表示をはじめた。翌昭和2年1月早々、函館昆布同業者組合は、賃金からの強制積立金の返還を要求して罷業、函館商事千代ヶ岱ゴム工場でも女工を含めた職工200人が健康保険料全額負担を求めて罷業するなど職場の待遇改善要求は高まっていた(昭和2年2月18・31日付「函新」)。
壇上の女性(昭和2年5月2日付「函新」) |
その年5月1日には第2回北海道メーデーが挙行され、函館公園には市内12団体から約500人が繰り出し、8時間労働制の確立などの長旗を掲げてメーデー歌「聞け万国の労働者」を連呼しながらデモ行進した。このメーデーには函館合同労働組合に属する千代ヶ岱ゴム工場の女工数人、断髪のバーの女給や変人社の女性なども参加している(5月1日付「函新」)。5月4日・5日「函館新聞」には、函館合同労組に属し、1日のメーデーで公園の演壇に起った川端米子(20)と保坂民子(21)のインタビュー記事がある。実家の旭町カ印染物屋で働く保坂は「函館の婦人は自覚が足りません。メーデーなどに参加すると直ぐ不良青年とか不良少女とか、ないしはモダンガールの跳ねっ返りでもあるかのように取られまするし、労働運動に立ちさわったりするとアナアキストとかヤレ社会主義とかいって…本当に情けないのです。婦人矯風会の渡辺順子(筆者注、当時の函館支部長)さんたちのとは妾は第一目的と立場を異にしていまするし環境といいブルジョワの真似はできません。合同労働組合の中でも婦人部が独立しているのは本道では函館だけです」と語っている。一方、川端は宝小学校高等科出身で『改造』や『中央公論』などを読み、安部磯雄や大山郁夫の話を聞いたこともあり、以前は勤めていたが、今は栄町交番前のサカエホールの店員と紹介されている。彼女はメーデーの1か月余り後、小樽港内艀部同盟罷業争議応援に函館婦人労働党員として参加(昭和2年6月26日付「函新」)、昭和4年4月には治安維持法違反で検挙されている。同年7月には、『戦旗』函館支局創立第1回委員会で書記長を務め、婦人団体を担当したが、翌5年12月『戦旗』支局事件で再検挙(他に女性7人取調べをうけている)された。保釈後は夫の故郷岩手県下で出産し、子供を連れて上京している(札幌の当摩氏の調査および昭和6年6月4日付「函新」)。
大正13年、女学校進学をあきらめて100人の応募者から採用された30人の1人として函館郵便局電話分室の電話交換手となった菅野(本間)キクヱ(当時15歳)は、その著『交換台』(昭和61年刊)のなかで、職場の雰囲気に慣れた頃「市外台に社会主義者がいると教えられて驚いた。…その人は仲間から孤立しているように見えた。川端米子という名前の知的で美しい人」で、彼女の理路整然とした話に歯が立たなかったが、いつの間にか彼女の姿は電話局から消え去ったと書いている。交換手を辞めた後の川端米子は既述したが、いずれにせよ川端との出会いに触発されて菅野キクヱは現実を直視し、社会主義とは何か等々も勉強することになった。 |