通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 8 大正・昭和前期の函館にみる働く女たちの実相 2 昭和前期 銃後で働く若い女性 |
銃後で働く若い女性 P1015 日中戦争の拡大により各職場から男性は召集されて行き、その分働く女性が増えた。郵便局でも鉄工場でも商店でも女性の比重が増し仕事の内容も戦争と係わりのあるものが多くなっていった。市役所兵籍課戸籍係の女事務員は「英霊を迎える職員の出張旅費とか遺族関係の書類作成等の仕事が多くなり、全員夜勤は当り前だった」と語っている(『道南女性史』7)。太平洋戦争が始まった翌年海軍管理工場に指定された函館ドックは、昭和19年1月海軍省より第1次軍需指定工場となり、市内鉄工業33工場を協力工場としながら母体工場として戦局の推移とともに躍進していくが「学徒の動員…半島人(原文のまま)の大量採用から奉公隊の出動となり女子挺身隊の協力となって昭和十八年から二十年八月の終戦間際まで総員実に五千名を突破する激増ぶり」(『郷土読本函館ドック五十年の回顧』)だったという。18年秋から終戦までドックの庶務課に勤めた女性は、自分も含めて国のためというより徴用逃れに女の人は結構働いていたと語り(『地域史研究はこだて』22)、同じころ「家で遊んでいるのだからと隣組の人に言われドックの挺身隊に取られ…白人の捕虜を使って…船の部品を作った」(『道南女性史』6)と話す女性もいた。昭和19年3月女子挺身隊制度は強化、7月には学徒勤労動員も徹底強化されて、1週6時間の授業さえも停止、1日の勤労時間も一般工員同様10時間を原則に残業を併せて12時間とし、中等学校3年生以上の女学生にも深夜業が可能となり、銃後国民の大半を家庭から学校から生産戦列に引っ張り出そうとした。しかし病気その他の口実を作って女子挺身隊への出動を拒む女性がいた。近郊農村方面に物資買いに行くために挺身隊へ出ることを避ける女性もいた(昭和19年8月6日付「道新」)。どこへ行かされるか分からない命令を待つよりはと自ら北の果てカムチャツカの占守島まで出掛ける女性達もいたことは既に述べたとおりである。そのような情況下で女子挺身勤労令を忌避した者に対し地方長官は期間1年の動員を取り消し、新に就職命令を発して無期限就職を強制し、結婚の場合も動員解除の特典を与えないこととし、新聞も「女性よ戦列へ」と呼びかけている(昭和19年10月7日付前同紙)。 |
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