通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 8 大正・昭和前期の函館にみる働く女たちの実相 2 昭和前期 電話交換手の職場改善運動 |
電話交換手の職場改善運動 P997−P998
菅野キクヱは、昭和6年の秋、『婦人公論』読者サークル(後述)の友人から紹介された日本労働組合全国協議会(全協)の男性の話に触発され、職場の友人小熊タミを誘い、岸田八千代・佐藤ミキ・飯島シンの5人で、同6年11月、組合「全協通信労働組合函館電話分会」を結成した。ガリ刷りの機関紙『話声』を発行し、休憩時間5分延長・便所増設・待遇改善など職場の切実な要求を取り上げ実現させていった。全協の指導を受けたとはいえ、その勇気と沈着な行動力には驚嘆する。しかし昭和8年4月、四・二五事件で検挙。検挙された道内230人のうち治安維持法違反で起訴された女性9人中の5人は彼女たちで、当時23〜25歳であった。このとき電話課の他の組合員や場所を提供したりビラを配った支持者など同僚や、他の職場の職業婦人など100人近くの女性が捕まり、菅野たちは勿論、不起訴となった人でさえ屈辱的なひどい拷問を受けていて、戦前の特高警察の残虐さを語っている。翌9年3月の函館大火をキナ臭い煙をすいながら柏野刑務所で過ごした菅野たち5人は、昭和10年4月、丸2年ぶりに釈放された。「転向を誓っても犯した罪重し、函館の全協事件九被告にけふ峻厳なる求刑」と新聞は報道し(昭和10年3月17日付「函毎」)、同年3月30日、全員に懲役2年執行猶予3〜4年の判決が出た(同年3月31日付「函日」)。新聞は「犯した罪重し」と書いたが、彼女たちがしたことは組合を作り職場を改善したことだった。強制されて「やってきたことは正しいと思うけれどこれからは実践しません」と誓わされたことだけであった。釈放後も特高の監視付きで転々と職業を変えざるをえず、1人は自殺し他の4人も茨の道を歩むことになる(『道南女性史』6、7、10)。 |
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