通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


「函館市史」トップ(総目次)

第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

8 大正・昭和前期の函館にみる働く女たちの実相

2 昭和前期

昭和初期の新しい職業と就職戦線

労働運動に参加する女性

電話交換手の職場改善運動

女工・出稼ぎ女工たち

各種婦人団体に集う女性たち

遊廓・カフェーなどで働く女性たち

銃後で働く若い女性

路面電車の車掌・運転手

国鉄で働く女性

電話交換手の職場改善運動   P997−P998


電話交換室(金谷八千代氏蔵)
 大正11年の「函館新聞」の「女の職業シリーズ」では、交換手は「函館局に一一〇何名かいるが、給料が安くて骨が折れるためか年々志願者は滅って行く傾向がある、その原因は勤務が辛いと言うことが第一である」と紹介している(5月14日付)。大正末期の交換台は、加入者が呼ぶと該当番号のフタが上に開きジャックを差し込み用件を聞くライトドロップという磁石式から共電式(加入者が呼ぶとランプが点火する)に切り替わったときで、交換手の労働強化は激しくなり「胸にブレスト(送信機)を下げ、頭に受信機を乗せて、四方から監視づきの状態は緊張の連続であった。一時間に一〇分の休憩時間…生理ともなれば悲劇だ。…トイレの数が少なくて…用を足さないうちに時間が来てしまうことも珍しくなかった」(前掲『交換台』)という。当時「電話課勤務の人は約二〇〇人で、管理職や事務員に一〇人足らずの男性がいる他は全て若い女性交換手だった。…職場に着くと局から支給された白い天竺木綿の元禄袖現業服を着物の上に重ね、交換台に座る。一人で一〇〇から一一〇本の線を受け持ったが、現在のように全自動式でなかったので、ベルが鳴り信号がつくと線を呼び出し番号の線につなぐので一度に何本もかかると大変だった。…非番(三交替制だった)で家にいても火事の時など皆職場に駆けつけたし、昇給は仕事ぶりの勤務評定で二銭の人や三銭の人とまちまちでいやな気分も味わいました。でも夕方四時から翌朝八時までの夜勤の時は交替で四、五人ずつ仮眠するのですが、歌ったりおしゃべりしたりで楽しかった」と、大正9年から長女出産2か月前までの9年間函館郵便局の交換手として働いた丸町キンは語っている(『道南女性史』1)。
 菅野キクヱは、昭和6年の秋、『婦人公論』読者サークル(後述)の友人から紹介された日本労働組合全国協議会(全協)の男性の話に触発され、職場の友人小熊タミを誘い、岸田八千代・佐藤ミキ・飯島シンの5人で、同6年11月、組合「全協通信労働組合函館電話分会」を結成した。ガリ刷りの機関紙『話声』を発行し、休憩時間5分延長・便所増設・待遇改善など職場の切実な要求を取り上げ実現させていった。全協の指導を受けたとはいえ、その勇気と沈着な行動力には驚嘆する。しかし昭和8年4月、四・二五事件で検挙。検挙された道内230人のうち治安維持法違反で起訴された女性9人中の5人は彼女たちで、当時23〜25歳であった。このとき電話課の他の組合員や場所を提供したりビラを配った支持者など同僚や、他の職場の職業婦人など100人近くの女性が捕まり、菅野たちは勿論、不起訴となった人でさえ屈辱的なひどい拷問を受けていて、戦前の特高警察の残虐さを語っている。翌9年3月の函館大火をキナ臭い煙をすいながら柏野刑務所で過ごした菅野たち5人は、昭和10年4月、丸2年ぶりに釈放された。「転向を誓っても犯した罪重し、函館の全協事件九被告にけふ峻厳なる求刑」と新聞は報道し(昭和10年3月17日付「函毎」)、同年3月30日、全員に懲役2年執行猶予3〜4年の判決が出た(同年3月31日付「函日」)。新聞は「犯した罪重し」と書いたが、彼女たちがしたことは組合を作り職場を改善したことだった。強制されて「やってきたことは正しいと思うけれどこれからは実践しません」と誓わされたことだけであった。釈放後も特高の監視付きで転々と職業を変えざるをえず、1人は自殺し他の4人も茨の道を歩むことになる(『道南女性史』6、7、10)。
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第3巻第5編目次 | 前へ | 次へ