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第2章 20万都市への飛躍とその現実
第7節 都市の生活と新しい文化
8 大正・昭和前期の函館にみる働く女たちの実相
2 昭和前期
昭和初期の新しい職業と就職戦線
労働運動に参加する女性
電話交換手の職場改善運動
女工・出稼ぎ女工たち
各種婦人団体に集う女性たち
遊廓・カフェーなどで働く女性たち
銃後で働く若い女性
路面電車の車掌・運転手
国鉄で働く女性
|
女工・出稼ぎ女工たち P998−P1003
現在では女工は、例えば女中・下女という言葉などとともに死語に近くなった感がある。しかし戦前は職業婦人と呼ばれた人々よりもっと多数の女性が、作業場や工場で働く女工としてあるいは土工夫や日雇いとして底辺を支えていた。大正から昭和前期の函館にどのくらいの数の女性労働者がいたのだろうか。
昭和2年1月31日付け函館警察署高等係調べの市内労働者は、
工場労働者 四四二九人中 女 八三四人 漁夫 四一〇八人中 女 三一二人
土工夫・日雇い 八九五四人中 女四〇二九人 仲仕 四三四人中 女 九一人
となっている(前出『函館地方社会労働関係史資料』)。女性の占める割合は、職種によって土工夫や日雇いの45パーセント近くのものから漁夫の8パーセント弱のものまであるが、特に土工夫・日雇いでの女性の割合は無視できない数である。なお大正10年〜昭和5年および昭和15年の、職工5人以上使用の函館区(市)内の工場で働く、職工総数に女工が占める割合も大体20パーセントを越え、昭和1、2年では25パーセント、日中戦争4年目の昭和15年には33.1パーセントと確実に増えていることが分かる(表2−218A参照)。
表2−218 A.函館区(市)内の工場総数及び男女職工数
年次
|
工場数
|
職工数
|
総数に占める女工率
|
生産額(千円)
|
男
|
女
|
計
|
大正10
11
12
13
14
昭和1
2
3
4
5
|
場
444
504
215
187
200
233
241
237
225
254
|
人
3,521
3,543
2,704
2,808
3,102
3,290
3,238
3,265
3,291
|
人
998
825
795
922
1,045
1,129
894
924
861
|
人
4519
4168
3676
3499
3730
4147
4419
4132
4189
4152
|
%
22.1
19.8
22.7
24.7
25.2
25.5
21.6
20.1
20.7
|
12,975
12,784
12,054
13,501
14,272
15,515
16,113
15,484
25,425
22,237
|
15
|
|
5,239
※16才未満
310
※16〜50才
4,609
※50才以上
320
|
2,594
106
2,384
104
|
7833
|
33.1
|
|
出典:大正10年は大正10年『函館区統計要覧』
大正11〜昭和1年は昭和1年『函館市統計要覧』
昭和1年〜昭和5年は昭和5年『函館市統計書』
昭和15年は昭和15年『北海道庁統計書』
注1)職工5人以上使用工場、但し大正11年は動力使用工場全部を含む
2)総数に占める女工率は筆者作成 |
さて労働者賃金だが、統計書で男女別に記載されている大正5年から昭和5年までの日雇人夫と下男・下女の賃金が表2−218B(1)である。この時期様々な職種毎の賃金一覧はあったが、明かに女性も従事していたと思われる職種にも女性の賃金は記載されていなかった。そこで大正14、昭和1年と昭和5年の男女別に分けて記載されている職種のみ追加した(表2−218B(2)参照)。また「函館新聞」も「健康保険署調査の市内工場労働者の1日1人当たり平均実収を1円60銭」(昭和2年8月22日付)と書いてはいるが、女性労働者賃金への言及はない。一方では、職業婦人とか進出する婦人といいながら、働いている女性への視点はほとんどなかったのである。表2−218Bからもよくわかるとおり労働者及び職工は男女共に低賃金であり、更に女性は男性の半分近くかそれ以下のもあり、特に製綿・製紙・製網・製缶などは著しく低賃金である。この低賃金は雇用側には使いやすいためなのか、男性失業者があふれているにもかかわらず、上述した如く昭和2年は土工夫・日雇いは半分近くを女性が占めていた。昭和7年3月28日の「函館毎日新聞」にはこのような女工の実態を伝える手記が紹介されている。彼女は1日11時間労働、忙しくなると夜勤は夜の10時11時にもなり、お昼と3時に計60分の休み以外は全く立ちづめで働く機械工場の婦人労働者だが、年齢は不明で通勤なのか寮生活なのかも分からない。工場の従業員約70人中40人が女工で、賃金の高い男工を解職しては女工を増やし、女には無理と思われる仕事までさせられる。そのため長年(1年か1年半)働いている女性の多くは指が半分なかったり、髪の毛が抜けていたり顔に傷が付いていたりする人が多いと訴えている。婦人および年少労働者の深夜業を禁止した改正工場法が施行(昭和4年7月)されてはいたが、中小企業にとって、不景気な時代を生き抜くためのしわ寄せは弱い立場の女工に集まっていたと思われる。
北千島をめざす女工群(昭和6年4月12日付「函毎」)
|
表2−218Cから、水産業に働く女工も昭和初期の5年間の統計だが12〜31パーセント強もいた事が分かる。一方漁業基地として賑わっていた函館から根室・北見、さらに遠く沿海州・樺太や北千島・カムチャツカ方面、いわゆる北洋漁業に出稼ぎに行く女工もいた。当時の新聞から出稼ぎ女工関連記事を拾ってみると、大正11年は「漁夫九七人中に女工も交じる」とあり、12年は「ウラジオに抑留された中に体中蚤だらけの女工一八名」、昭和2年は「女の出稼証明約三〇名に」、3年は「カムサッカに出稼ぎの女工三六名還る、年齢一三〜四から一七、八の者多い」、4年は「勘察加へ乗り出す娘子軍二二名」(昭和4年4月30日付「函新」)とあって、出身は「内地方面の者は少なく銭亀沢、大野村、亀田村の者ばかり」となっている。この頃出稼ぎをしていたという銭亀沢村根崎出身の羽澤ツネは、昭和18年の紙上で次のように語っている。「最初に出稼ぎしたのは一七の年で沿海州ネリマの蟹缶工場でしたが、この年パルチザンの尼港事件が発生し春に現地に乗り込んだ私達はその噂を聞いて戦々兢々としていました。…莫大な損害を蒙って工場が直ちに引き上げたことは勿論です。その翌年も沿海州に出かけましたが、今度は目的地まで来て一ヵ月も上陸を許されないのです。…カムチャッカに行った年は二二で結婚したばかり、夫と共に新婚旅行の気分でしたが目的地の西海岸エーチャンに着く手前で猛烈な台風に襲われ、千トン足らずの汽船は木の葉のように翻弄され…難破、…ひどい新婚旅行です。…あのときが一番生々しい記憶として残っています」(昭和18年3月6日付「道新」)。尼港事件は大正9(1920)年3月の事件だから、昭和18年まで25年近く毎年命懸けで出稼ぎに行っていたことになる。
表2−218
B.(1)年次別男女労働者賃金
単位:円
年次
|
日雇人夫
|
下男・下女
|
男
|
女
|
男
|
女
|
大正5
6
7
8
9
10
14
昭和1
5
|
0.53
0.78
0.93
1.50
2.00
2.05
2.00
1.27
1.44
|
0.29
0.38
0.50
0.80
0.80
0.85
1.00
1.00
0.94
|
3.40
4.05
7.50
−
12.00
12.00
13.00
18.25
13.00
|
3.00
3.45
4.00
−
6.00
6.00
7.00
8.50
9.50
|
日雇人夫:日給平均、賄い無
下男.下女:月給、賄い付
出典:大正5〜7年は大正7年『函館区統計』
大正8年は大正8年『函館区統計』
大正9・10年は大正10年『函館区統計要覧』
大正14〜昭和1年は昭和1年『函館市統計要覧』
昭和5年は昭和5年『函館市統計書』 |
|
表2−218 B.(2)職種別男女職工賃金
単位:円
職種
|
大正14
|
昭和1
|
昭和5
|
備考
|
男
|
女
|
男
|
女
|
男
|
女
|
製紛 |
1.00
|
0.60
|
1.19
|
0.81
|
|
|
月給賄い付 |
製麺 |
1.20
|
0.70
|
1.25
|
0.80
|
|
|
|
製綿 |
1.80
|
0.80
|
1.75
|
0.82
|
|
|
|
製紙 |
3.10
|
0.40
|
1.30
|
0.50
|
|
|
|
石けん製造 |
1.00
|
0.65
|
1.27
|
0.80
|
|
|
|
製網 |
2.10
|
0.70
|
2.11
|
0.72
|
|
|
|
製網・製綱 |
|
|
|
|
1.40
|
|
日給賄い無 |
製缶 |
|
|
|
|
1.80
|
0.66
|
日給賄い無 |
出典:昭和1年『函館市統計要覧』
昭和5年『函館市統計書』 |
表2−218 C.水産業従事者数
区分
|
漁撈業
|
製造業
|
計
|
業主
|
被用者
|
業主
|
被用者
|
男
|
女
|
計
|
女性の比率%
|
年
|
男
|
女
|
計
|
男
|
女
|
計
|
男
|
女
|
計
|
男
|
女
|
計
|
昭和1
2
3
4
5
|
655
655
699
664
672
|
−
−
1
−
−
|
655
655
700
664
672
|
2,720
2,505
1,518
1,395
1,778
|
290
280
683
689
630
|
3,010
2,785
2,201
2,084
2,403
|
160
160
168
176
163
|
1
5
5
2
47
|
161
165
173
178
210
|
930
720
327
332
327
|
620
290
500
494
464
|
1,550
1,010
827
826
791
|
4,465
4,040
2,707
2,567
2,940
|
911
575
1,189
1,185
1,141
|
5,376
4,615
3,896
3,752
4,081
|
16.9
12.4
30.5
31.5
27.9
|
出典:昭和5年『函館市統計書』
女性の比率は筆者作成 |
このように新聞で見る限り、北洋に出稼ぎに行く女工の人数は多くはなかったにしてもかなりいたことがわかる。特に昭和6年以降は出稼ぎ女工は非常に多くなっている。不景気で、まじめに働き賃金も安くていい女工をということの他に男工とでは仕事の内容が違ったのか、またはこの年9月18日勃発する満州事変との関わりもあるのだろうか。たとえば昭和6年には「北千島さして二百の女工群」(3月31日付「函毎」)、翌7年には150人の女工群が「前借り五〇円で九月ごろまで働く」(4月12日付)などとある。昭和期に出稼ぎに行った銭亀沢出身の女性は「昭和十年と十一年、カムチャッカ半島の近くの占守島に働きに行きました。鮭・鱈の工場がその年、長崎(島内の地名)に初めて出来るという事で、私はそこの偉い人の給仕に行ったんです。女工さんも一〇〇人位いたかな。普通は五月に行き九月の終わり頃帰るのですが…その前年は樺太の敷香にも行きました。村に会社の周旋屋が来るんです。村から六、七人、戸井や瀬田来など併せて二〇人位で行ったんですが、むこうには一杯同郷の人がいて楽しかったですよ」(『道南女性史』10)と語っていた。しかし戦争も末期になると様相も違って来て、昭和19、20年に2回行った女性は「徴用を待って家でブラブラしているよりはと、自分から応募して占守島の缶詰工場に行ったんです。一年目は楽しかったけれど、昭和二十年八月十六日、最後の残酷を見て逃げて来たから戦争の話はイヤ。思い出すのもイヤだし…日本人の女工さんの中でも慰安婦をさせられた人もいるし…あんまり詳しいことは言いたくない。勘弁してほしい」(前同)と話した。
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