通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 5 芸術分野の興隆 その後の活動 |
その後の活動 P904 昭和9年以後、戦前期の函館で再び総合的な美術展覧会が開催されることはなかった。また、日本画家たちの活動の衰えは激しく、確固とした日本画の団体が生まれることもなかった。一方、新しい美術表現を志向する団体としては、彩人社以降には、昭和13年に田辺三重松の門下生を中心として結成された「新樹社」があり、同会は、13年2月に第1回展を、同年11月に第2回展を開催したのち翌14年2月に第3回展を実施しており、その後、少なくとも15年までは活動を続けている(昭和13年2月15日、11月13日、19日、14年2月2日、15年4月13日付「函新」)。参加したのは金子幸正、西田秀雄らであるが、13年11月19日の「函館新聞」に発表された海老名禮禮太の評文「新樹社と田辺氏個展」をみると、中央画壇での動向よりもはるかに遅れてはいたものの、彼ら若手作家が、同会第2回展(11月11日から13日)にシュルレアリスムと抽象ふたつの前衛的傾向を示した作品を函館ではじめて発表したらしいことがうかがわれる。だが、こうした新しい絵画表現も、今度は戦時体制という時代的な圧力のなかで長く続くことなく、姿を消してしまうのである。そして、その後の函館画壇では、創立当時と同じように、赤光社だけが組織的な唯一の美術団体として活動を続けていくことになる。このような一種閉塞した美術状況が変化をみせ、田辺三重松や池谷寅一ばかりではなく、岩船修三、橋本三郎[大正2年−平成元年]も含めた複数の作家による優れた個性の競い合いが実現するためには、戦後を待たなければならなかった。そして、さらに、既成美術団体にのみ頼ることなく、真に独創的な美術表現を展開する作家があらわれるようになるのは、現代に入ってからのことなのである。 |
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