通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 5 芸術分野の興隆 函館美術協会の結成 |
函館美術協会の結成 P900−P901 日本画の分野が活況をみせはじめたのと対照的に、大正10年代の函館の洋画家たちは、どちらかといえば赤光社を中心に小さくまとまり、波乱のない静かな活動に終始していたようにみえる。もちろん、赤光社自体も後援に加わり、大正13年6月と翌14年6月に、それぞれ札幌と小樽での開催後、函館でも公開された2度の「アムボール美術展覧會」は、林武や梅原龍三郎、安井曾太郎をはじめとする中央画壇の代表的な作家の作品のほか、ルノワール、ロートレックなどヨーロッパ近代の巨匠たちの版画や素描の実作にもじかに触れ得る貴重な機会として、函館の洋画家たちを触発したものと思われる(各出品目録および大正13年6月25、26日付「函新」、大正14年6月19日付「函毎」)。また、先述したように北海道美術協会結成にあたって、5人の画家が創立会員として函館から参加したことも、赤光社に集う人々や洋画家を志す青年たちの励みになったことであろう。とはいえ、大正末期の函館の洋画壇では、それ以上の特筆すべき新たな出来事は起こらなかったといえる。こうした、やや停滞ぎみの函館の洋画壇に再び活気がみられるようになるのは、大正15年のことであった。この年の春に天間正五郎が第4回春陽会展に《静物》を出品して初入選し、秋には、酒谷小三郎の《花》が第7回帝展第二部(西洋画)に入選したのである。また、帝展の第三部(彫塑)では、在京の梁川剛一が初入選を果たしてもいた。さらに昭和2年には、池谷寅一、前田政雄がそれぞれ春陽会展と国画創作協会展に初入選する一方、二科展では、やはり在京の山口潔も初入選をし、梁川も帝展に再度入選している。そして翌3年にも田辺三重松と吉田耕三が新たに二科展に入選を飾った(以上、各展出品目録)。このように、大正15年以降になると、主に赤光社に参加する函館在住、出身の洋画家たちの中央画壇への進出も盛んとなっていった。いわば大正15年から昭和3年頃にかけての函館は、洋画、日本画ふたつの分野で画壇が活気を帯びていた時期なのである。そして、この一種高揚した美術状況から生まれたと考えられるのが、函館市出身の洋画家、日本画家たちが集結して昭和4年5月に設立された函館美術協会であった(5月6日付「函新」)。昭和4年10月8日の「函館新聞」の「函館美術協會第一回展覧會」によれば、同協会は昭和4年春に創立発会を開くとともに小品展を開催したという。そして10月12日から17日の6日間にわたって、市民館を会場として第1回展を開催すると告げている。その出品作家数は50名近くであり、出品点数も200点を超えるだろうとのことであるが、同記事に記された主な出品者の名前をみると、池谷寅一、田辺三重松をはじめとする赤光社とその周辺作家はもちろんのこと、谷口玉湖、山本玉渓、高井一鳩、武藤雪堂ら鳳道画会や丹青会に所属する多くの日本画家たちも加わっており、「あたかも地方に於ける帝展ともいふべき大展覧會となるであらう」という論評も、当時の函館の美術界の水準を考えれば、必ずしも大袈裟とはいえない。 だが、この第1回展を終えたのちは、せっかく函館の画家たちが大同団結した函館美術協会の活動も休止してしまう。それとともに、あれほど活発であった日本画家の活動を伝える新聞記事もみられなくなってしまう。札幌の道展でも、すでに昭和3年の第4回展以降は、第2回展を除いて洋画、日本画の両部門で入選を重ねていた笹野順太郎以外は、函館からの入選者はみられなくなっていた。これに対して、洋画家たちの活躍は以前にもまして盛んとなり、在京作家のうち吉田耕三、小川智なども二科展、帝展にそれぞれ入選を重ねていった。こうした昭和期に入ってからの日本画の凋落と洋画の隆盛は、実は北海道では函館だけのことではなく、札幌でも起こったことであった。函館美術協会の活動が鈍ってしまったのも、あるいは、この日本画家の活動の不振に理由があったのかもしれない。その後、函館美術協会がようやく第2回展を開催したのは、第1回展終了後2年以上もたった昭和7年7月のことであったのである。そして、このような函館美術協会のありさまと、それをとりまく函館の画壇の状況に鋭い批判の言葉を浴びせたのが、桐田P三であった。 |
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