通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

5 芸術分野の興隆
3 美術界の動向

書画会の画家たち

北条玉洞とその系譜

洋画界の胎動

鈴木巌と山本行雄

赤光社の誕生と函館美術院

大正時代の日本画

函館美術協会の結成

桐田ョ三と彩人社

その後の活動

書画会の画家たち   P883−P885

 函館では、明治10年代初頭には揮毫を中心とした書画会が相ついで催されるようになっていた。たとえば11年12月8日には、長く函館に滞在していた青森の画工・成田蠖園が上京のため離函するのに際し、盛大な書画会が蓬莱町の個人宅で催されて「當地に有名の諸先生が出席して揮毫」したという(12月6日付「函新」)。そして、こうした在住の文人墨客や来遊画家たちがもっとも数多く集まり、「巴港開港以来古今未曾有の盛會なりと古老の方々が驚かれし程の」規模で実施されたのが、15年3月21日に会所町所在の中村楼を会場として開催された大書画会であった(3月24日付「函新」)。同会では明清書画の展観や当時の函館の書画会につきものであった囲碁会の席も設けられていたが、何よりの呼び物となったのが、函館在住の大家たちによる席画の揮毫であったという。そのうちもっとも人気を集めた画家として名前が挙げられているのは、(有竹)碧光、(石崎)錦水、(加藤)狂濤、(村尾)嘯山、烟波の5名である。
 ついで、同年6月から9月にかけての「函館新聞」紙上を賑わした美術関連の記事が、10月に東京で開催された第1回内国絵画共進会についての報道である。同展は、農商務省主催による近代日本初の官設公募絵画(=日本画)展覧会であり、函館からは次の11作家による計28点が出品されたことが出品目録などにより確認される。
 [第2区−狩野派]小原盤流(本名・里得、狩野派)2点、[第3区−支那南北派]石川渓鴎(本名・勘蔵、南宗派)2点、石崎錦水(南宗派)2点、羽生一山(本名・六松、南宗派)4点、北條陸泉(=玉洞 本名・盛英、北宗派)2点、加藤狂濤(本名・美津和、南宗派)3点、福田蘭谿(本名・勘兵衛、北宗派)2点、澤田雪溪(北宗派)3点、木戸竹石(本名・寛造、北宗派)2点、木村巴江(本名・萬造、北宗派?)2点、[第5区−円山、四条派など]前田披晁(本名・園松、四条派)2点、木村巴江(前出、円山派)2点
 このうち木村は第3区と5区の2部門に入選しているが、このようにひとりの画家が複数の画派にまたがって制作出品をおこなう例は、各画派内の規律が絶対的なものではなくなっていた明治初期には全国的にみても珍しいことではなかった。さらに、このほか15年9月26日の「函館新聞」によれば竹溪と号する画家も出品を試みたというが、落選したものか出品目録には掲載されていない。また、羽生と前田の2名はそれぞれ函館区外からの参加であったようである。ともあれ、おそらくは、この第1回内国絵画共進会の開催と出品作品入選がひとつの契機となったのであろう、共進会開催と同じ月の10月には「毎月第二日曜日に開會する」ことをうたった「月次画会」の結成が報じられ、小原、石川、石崎、澤田、木村ら共進会入選作家に村尾嘯山を加えた6名が中心メンバーとして同会の運営に携わっていったことが以後の新聞記事からうかがわれる(10月6日、10月10日付「函新」)。このほか、他の書画会や古書画古器物を展観する鑑画会などの催しも相変わらず数多く、10月29日に谷地頭の浅田屋で開催された書画会には、澤田や村尾、加藤狂濤、有竹碧光のほかに霞浦と称する画家や、明治10年に来画して『巴珍報』の挿絵を担当した秋田出身の平福穂庵[天保15年−明治23年]が参加していた(10月30日付「函新」)。さらに17年4月には、第2回内国絵画共進会が開催され、同展では、第1回展に引き続き石崎(南北合派、2点)、加藤(南宗派、2点)、澤田(北宗派、2点)、木村(円山派、2点)の4名が入選を果たしたほか、古屋竹逕(本名・勝暁、2点)の入選も記録されている(『農商務省版 第二回繪畫出品目録』明治17年4月)。なお、この折の札幌県からの入選者は3名であり、そのうちの1名は、本職が官吏であるため函館から札幌に転勤していた北條玉洞(当時の雅号は陸僊)であった。
 このように、明治10年代後半の函館では、札幌とは比べものにならないほど早い時点から数多くの日本画家が制作活動を展開して中央美術界でも実力を認められていたばかりか、すでに画壇の形成とも呼ぶべき成熟した美術状況が芽ばえつつあった。これはやはり、北海道のなかでは例外的に近世末期からの文化的伝統を受け継いだ土壌があったことと、北前船などを通じて京都圏の美術動向が伝えられていたであろうことが要因になっているものと考えられる。南宗派(南画=文人画)の画家が多いことも、中央の大都市圏を中心に明治10年代までの日本の絵画界全体に共通してみられた傾向であり、この点でも、函館の絵画状況は札幌の場合とは異なり、京都や東京と正しく同時代動向を示していたといえる。ただし、第1回、第2回の内国絵画共進会の出品作のなかには、澤田雪溪《北海道白糸瀑布ノ図》(第1回)や木戸竹右《石狩川鮭漁図》(第1回)、木村巴江《蝦夷人酒宴》(第2回)のようにいかにも北海道、函館らしい画題を示している作品が含まれていることがひとつの特色であるとみなすことはできよう。
 しかし、こうした明治10年代の日本画をめぐる活況は、19年頃には早くも衰退したようである。内国絵画共進会を引き継ぐかたちで民間の「東洋絵画会」が同年4月に開催した東洋絵画共進会には、函館の画家としては、わずかに石崎(会所町44番地、57歳)と澤田(汐見町6番地、43歳)の2名が出品目録に名前を連ねているに過ぎない。その背景には、あるいは老大家の死去にともなう函館の絵画界での避けようのない世代交代の影響があったのかもしれない。
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