通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 5 芸術分野の興隆 桐田ョ三と彩人社 |
桐田ョ三と彩人社 P901−P904 桐田ョ三[明治43年−昭和8年]は、函館中学校を4年で中退したのち大正15年前後に上京し、日本画を学ぶ一方、前田寛治に「私淑シ」て洋画を独習したという(『桐田ョ三遺作集』昭和9年)。その後、昭和4年2月に設立されてまもない第一美術協会の初期の公募展に入選したと伝えられるほか、同年6月に函館の市民館で開催された、田辺三重松、佐野忠吉、岩船修吉(修三)[明治41年−平成元年]、鈴木巌らの絵画グループ・青潮社の第2回展に出品参加した形跡が残されている(同展出品目録)。ついで6年1月の第1回独立展に《古き庭園》(函館市弥生小学校蔵)が入選、翌7年の第2回展にも《風景》が連続入選したことが確認される。これらの桐田の作風は、実作や作品図版から判断すると、前田の強い感化をうかがわせる荒いフォーヴィスム風のタッチを基調としたものであったといえるが、その一方で、「ピカソ、キリコ、レゼエ」らによるヨーロッパの前衛的な絵画表現に関心をいだいていたという桐田は、パピエ・コレの技法を用いたブラックを想わせるキュビスム風の制作も試みていた(『遺作集』)。このような画歴の桐田が中学時代の同窓生の濱谷次郎、今不二雄、河内良一とともに昭和5年に函館で結成したグループが彩人社であり、同会は青潮社の作家たちにそなわる一種保守的な体質と訣別することを宣言する(6年6月23日付「函新」)とともに、「アカデミズムの悪影響」のもとで「疲労と沈滞を來している函館畫壇に新時代の実現を計る」若々しい表現の追求を標榜していた。彼らがことに批判の対象としたのが、赤光社を主軸とする権威主義的な函館洋画界の中心人物とみなした田辺三重松で、昭和7年7月15日から5日間にわたり開催された第2回函館美術協会展開催の際には不参加声明を新聞紙上で述べた(13日付「函新」)ばかりか、7月20日の「函館新聞」に展評を寄せ、同展出品作品中の風景画を総じて「エコール・ド・田辺」としたうえで、当の田辺の出品作《夏の港町》に「形量の不用意な決定と物質感の表現不足が眼についてよくない」と酷評を浴びせかけている。これに対して田辺も反論を述べ(27日付「函新」)、この時点から彩人社側の若手作家たちと田辺や池谷ら函館美術協会展の審査員クラスの重鎮たちの間で論争が重ねられることになる。こうしたなかで彩人社は昭和6年8月の第1回展に続く第2回展を7年8月25日から29日まで森屋百貨店で開催し、「近代フランスのピカソ・ドラン・マチスを思わせる深刻、清廉、軽妙な筆致の力作」(27日付「函毎」)を発表するが、そのうち反戦をうたった桐田の出品作が函館警察署特高課と憲兵隊の手で押収されるという騒ぎが起こっている(30日付「函毎」)。そして、この事件を契機として桐田は、プロレタリア美術運動の影響を感じさせる難解で激しい攻撃的な口調により、以前にもまして強く「ブルジョア畫家の屑の寄集まりに外ならない」「餘に幼稚な函都美術家」を批難していくのである(9月14日付「函新」)。その背景には、同月はじめに東京で開幕を迎えた第19回二科展に、長谷川二郎[明治37年−昭和63年]とともに田辺も入選し、そのことを函館の新聞各紙が大きく報じたことも要因としてあったのではないかと推測される。このように、桐田らの彩人社の活動は、若者の新興グループが昭和初期の函館で、田辺を中心とした既成画壇に挑んだ挑戦であった。そこには、本質的には保守的な「函館美術界の閉鎖性批判」に根ざす若者らしい情熱があったことは確かであるが、その一方で、こうした急進的な芸術意志が、仁科章夫設計の昭和5年の森屋百貨店の建築デザイン(同5年11月28日付「函新」)に象徴されるような、当時の函館を彩る昭和期モダニズムの都市感覚に支えられて生みだされたことは指摘しておいてもよいだろう。 その後、昭和8年2月に桐田は病に倒れ、同年3月の独立展にも出品することなく、5月に死去するが、9月にその遺作を中心とした第3回彩人社展が開催された(8月30日付「函新」)ほか、11月には、やはり桐田の遺作を含む「第一回函館美術展」が図書館を会場として開かれている。出品目録には函館美術協会と函館図書館が主催者として名を連ね、その出品内容は「函館美術協會員作品」が中心とはなっているものの、それ以外の多数の所属美術家たちも出品している。また、函館美術協会員のなかには「赤光社同人」の田辺三重松や池谷寅一らに並んで、「彩人社同人」の佐熊匡一、川瀬勇、それに故桐田の名前がみられる。さらに同展は洋画、日本画、彫塑の3部門で構成されているが、そのうち日本画部門には山本玉渓も出品していることがわかる。このことから、旧来の函館美術協会展は全函館的な総合美術展覧会へと再構築され、そのなかで赤光社の作家たちと彩人社のメンバーの対立は一応解消したように見受けられる。それは、函館唯一の彫刻団体・塑人社や八雲の農民美術をも統合する「函館美術家連盟」結成を構想していた桐田の夢を、不完全ながらも実現した企画であったともいえるかもしれない。 |
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