通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 5 芸術分野の興隆 赤光社の誕生と函館美術院 |
赤光社の誕生と函館美術院 P895−P897 北海道内初の組織的な美術団体・赤光社が創設されたのは大正10年のことであるが、同会は、当初は「アポロ美術会」として設立準備がすすめられた。大正10年2月4日付の「函館新聞」は「函館の美術界にまた一団体が アポロに美術社」との記事を掲載し、同会が1年に1、2回、制作展覧会を開催するほか、毎年2月に研究会を設ける計画を持っていることを伝えている。また、同会の事務所は「亀田屋小路歯科医 内山精一」方であり、11日の午後6時から、同会が末広町東部事務所階上で創立発会をおこなうと予告している。しかし、その後、8月には「赤光社第一回の美術展覧会は八月二十三日から二十五日公会堂」で開催と報じられている(23日付「函日」)ように、会の正式名称は、この間に曲折を経て「赤光社」に定まることになったものらしい。同会結成の第一の推進者は、第1回展目録に創立の宣言文を執筆していることや、後年の田辺三重松らの回想(「赤光社創立の頃」『画風に響く風土』昭和56年)から山本行雄であったと考えられ、山本とともに会内で主導的な立場に立っていたのが、池谷寅一であったらしい。いずれにせよ、洋画団体・赤光社は先述の新聞記事通り、大正10年8月に創立第1回展を開催するが、その内容は、出品目録に従えば山本や池谷、内山のほかに近岡外治郎、藤沢利三郎、三方正之助、西村正恕、笹野順太郎、佐野忠吉、田辺三重松、高橋賢一郎、天間正五郎、浦尾革兒、山口君之助、村上静雄の計15作家による油彩画、水彩画、素描など118点に加えて、32点強のセザンヌ、ゴッホらの名画の複製を公開する、当時としては大規模な展観であった。また目録や新聞記事の記述から判断する限りでは、少なくとも創立時には、後年、誤って伝えられているような出品者の中での「同人」「客員」の区別はなかったようである。その後、第1回赤光社展が終了してまもない大正10年9月に、山本の《曇り日の桜》が第8回二科展に入選する(9月6日付「函新」)。前年の第7回展に続いての連続入選であり、「函館新聞」は「氏の得意を想像するに余りあるものと共に、我が函館より名誉ある作家を出せるは、我等の共に喜ぶ所なり」と称揚している。さらに山本は、この入選を機に中央の有力な美術雑誌『みづゑ』に「創造の自由と深化」と題する小文を寄稿(同第200号)し、二科展の会場で見た他作家の出品作のうち特に興味をひかれた作品として、神原泰の《生命の流動》や、中川紀元の《立てる女》《アラベスク》《猫と女》を挙げている。神原と中川は共に、二科会で活躍をはじめていた新進の気鋭作家であり、山本も参加することになる翌11年10月の大正期新興美術運動グループ「アクション」の結成で中心的な役割をになう人々であった(『アクション展』図録 朝日新聞社 平成元年)。このほか山本は10年には、4月に正宗得三郎との二人展(『正宗得三郎氏渡彿紀念美術展覚會』)を、10月には第2回目の個展をそれぞれ開催するなど、旺盛な制作活動を展開した。 やがて、中央画壇でも活動し得る自信を深めた山本は赤光社と訣別して、函館に別の美術団体を創設する準備をはじめる。その具体的な計画がいつからはじまったかは定かでないが、11年3月9日の「函館新聞」の記事「函館美術院競技会成績発表」には、3月8日に「函館美術院」研究会が第1回競技会を開催し、その結果、第1等賞と第2等賞が決定したことが記されている。また記事内容からすれば、山本行雄が主幹をつとめる「函館美術院」研究所は競技会実施以前から受講生を集め、指導をおこなっていたことがうかがわれる。やがて山本は活躍の舞台を求めて上京するが、6月7日に「函館新聞」は「美術院展覧会/開会いよいよ近づく」との記事で、山本が同院の第1回展覧会開催準備のため同日午後1時の連絡船で帰函することを伝える。会期は6月17日から19日までの3日間で、南部坂下の末広町東部事務所で開かれる展覧会であった。出品作品は、山本自身の《演奏会前夜》、二科展入選作《曇り日の桜》をはじめ、正宗得三郎、有島生馬、中川紀元、ザッキンの油彩画など全部で50点であり、高桑千代雄の2点の遺作も展示された。6月18日付「函館新聞」は、17日の午前だけで200人の入場者があったと記している。函館に中央画壇の油彩画家たちの作品がこれほどまとまったかたちで紹介されるのは初めてのことであったし、「函館美術院」展覧会とはいいながら、地元の美術団体の発表会である赤光社展とはまったく異なる性格の展覧会であった。 だが、山本行雄の函館での活躍は、この展覧会を最後に終わってしまう。「函館美術院」が第2回目の競技会を実施することもなければ、特別展覧会を開催することもなかった。東京での山本の活動が盛んになるにつれ、同院は自然消滅してしまう。「函館美術院」展覧会終了後、山本は東京を拠点にめまぐるしい活動をはじめるが、以後、函館の美術界と関係を持つことはなかった。一方、赤光社はその後順調に回を重ね、参加者もしだいに増えていく。そして大正14年の北海道美術協会(道展)結成に際しては、近岡外治郎、池谷寅一、酒谷小三郎、天間正五郎、内山精一の5人を創立会員として送りだす。また、田辺三重松も、大正15年には道展会員となる(『道展四十年史』昭和41年)。こうして、大正期の函館の洋画家たちは、赤光社をひとつの足がかりとしつつ活動の舞台を広げていき、さらに昭和期になると、中央画壇でも活躍をはじめていくことになるのである。 |
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