通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

5 芸術分野の興隆
3 美術界の動向

書画会の画家たち

北条玉洞とその系譜

洋画界の胎動

鈴木巌と山本行雄

赤光社の誕生と函館美術院

大正時代の日本画

函館美術協会の結成

桐田ョ三と彩人社

その後の活動

洋画界の胎動   P889−P893

 安政5(1858)年に開港した函館には、幕末から明治期にかけて欧米のさまざまな技術・文化が流入してきた。そのことを考えれば、明治期の函館では、日本絵画にもまして油画(=洋画、油彩画)に興味をいだく人々が数多くあらわれ、西洋画法による制作活動が盛んな展開をみせていたと想像しても不思議ではない。しかし、実際には、文献史料による調査の限りでは、明治初期中期の函館での油画をめぐる出来事は意外なほどわずかしかみいだされない。これは、失われた作品や文献史料、記録などが少なくなかったということ以上に、おそらくは日本絵画の場合とは異なり、優れた西洋画法の指導者や教育者が当時の函館には在住していなかったことによるものであろう。幕末から明治初期にかけて活動した函館ゆかりの洋風美術家としては、近代日本の初期油画と写真の両分野で先駆的な役割を果たした横山松三郎[天保9年−明治17年]の名前を忘れるわけにはいかないが、少なくとも明治期についていえば、東京を活動の拠点としていた横山が函館の美術界に何らかの直接的影響をおよぼした形跡を認めることはできない。明治10年代以降の函館での油画にかかわる動向のうち、文献史料を通じて知ることのできる最初の確実な出来事としては、明治15年5月に、横山が門下生亀井竹次郎の油画作品35点を函館の有力者を介して函館県博物場に寄贈した一件が挙げられる(5月8日付「函新」)。亀井竹次郎は、やはり横山に師事した明治期の洋風美術家・亀井至一の弟であり、当の油画作品は「古人物」をモチーフとした竹次郎の遺作であった。横山が青少年期を過ごした函館に弟子の油画作品を送付した理由は、郷里の「公衆の覽に供し」「永く後代に傳へん事を謀」ったためと報じられているが(5月10日付「函新」)、それらの現存は確認されていない。また同年12月から19年9月にかけて東京の工部美術学校画学科出身の山口彦二郎が函館師範学校に図画教員として赴任したが、山口のもとから洋風美術家が輩出したという記録もみいだせない。
 こうしたいわば地元洋風美術家不在の状況が変化をみせるようになるのは明治20年代に入ってからのことのようで、たとえば前出『巴港詳景 函館のしるべ』には、「洋畫油繪師」として北條玉洞、田中健三、松浦秀女、「水彩鉛筆畫師」としては西郷康三の名前が記されている。ことに北條は明治33年の時点では、日本で最初の全国的な洋風美術団体・明治美術会の通常会員に名を連ねていた(『明治三十三年五月十日調 明治美術會會員名簿』)ほか、35年には函館中学校の校友会誌『学叢』に洋風画法の初歩についての連載記事を寄せ、さらに大正元年の『函館区統計書』によれば「絵画学校」に日本絵画科とともに西洋絵画科も設けていたなど、実作と教育の両面で明治中後期の函館における洋風画法振興に尽力していた様子がうかがえる。ただし、北條以外の3名の経歴や作風などはいずれも不明で、北條についても、いつからどのように油彩画法を習得したのかという経緯や油彩の実作品もまったく知られていない。同じく、先述したように明治35年から41年まで函館で図画教員をつとめていた北山晃文も油画の制作を手がけていたようであるが、実情はつまびらかではない。しかし、これらの人々の美術活動が、おそらくは明治中期から末期にかけての函館で、日本人が制作する洋風絵画に親しむ土壌をしだいに整えていったものと推察される。とりわけ、北山の後任として明治36年以降大正6年まで函館商船学校で長く図画教員として教鞭をとり続けた夏井潔(本名貞藏)が果たした指導的役割は大きかったと思われる。明治元年に生まれた夏井は、カリフォルニア大学美術学校を明治24年に卒業し、明治後期から大正初期にかけて函館を生活の場と定めた人物で、函館在住の洋画家としては全国に存在を知られた当時唯一の作家であった(前出『明治四十三年度 日本美術年鑑 第壹巻』)。
 ついで大正期に入ると、函館での洋画をめぐる動向は少しずつ活発化しはじめる。大正元年8月7日の「函館新聞」には、函館の金持ちの若旦那のなかには油絵をたしなむ者が多いとの記事がみられ、その筆頭として「齋藤華は専門家」であると記されているが、これも当時の函館の洋画流行を伝える証言といえる。そして翌大正2年5月には、前記の天勢会主催「丸(ママ)山派絵画展覧会」の会場休憩室に「青年洋畫家齋藤華氏」の「特志を以て」、彼の作品が数点展示された(5月2日付「函新」)。華(本名俊三)は当時の函館銀行頭取・齋藤又右衛門の息子で、その後神奈川県の小田原に転住して制作活動を続け、大正7年7月に同地で死去した(7月7日付「函日」)。またこの「丸(ママ)山派絵画展覧会」での齋藤作品特別展示に続いて、大正2年6月28日の函館中学校々舎では、同校の美術クラブ・鈴蘭画会の第1回展が開催された(6月30日付「函新」)。展示作品は油彩画と水彩画の総計約80点で、その出品者は、もっとも出来栄えが優れていると賞賛された高桑千代雄ら計8名であった。ついで大正3年に高桑は第8回文部省美術展覧会(文展)に水彩画を初出品初入選し、翌4年の第9回同展にも連続入選、さらには上京して東京美術学校西洋画科に学ぶことになる(『高桑千代雄氏遺作洋畫展覧會目録』大正12年5月、函館図書館)。また高桑が文展初入選を果たした年の12月に函館商業学校で北條玉洞の指導を受ける芸術サークルのオーロラ(極光)画会が結成され、4年2月には末広町西部事務所を会場として同会第1回展が開かれたと伝えられる。同会には昭和初頭から長く函館洋画界を主導していくことになる田辺三重松[明治30年−昭和46年]も参加しており、水彩画や擦筆画(コンテ画)を制作出品したという(『函商百年史』平成元年)。また大正5年8月2日から4日にかけて、高等女学校の新任の図画教員であった宮武辰夫の「個人洋画展覧会」が公会堂で開催され、宮武が来函前に制作した後期印象主義風の大正2年と3年の第7、8回文展入選作を含む油彩画約100点のほか、水彩画や鉄筆スケッチなどが展観された。同展は、函館で初めての大規模な在住画家による洋画の個展であり、「入場料は別に取らぬが、下足料として五銭を投じた方に、全部の畫題を記るした目録を各一部進呈する」という点でも「函館には珍らしい催し」であった(8月1日付「函新」)。そして同展の成功を受けて11月には、宮武の作品を有料頒布する「宮武西洋画会」も設けられることになった(同『畫會規定』)。さらに大正6年になると、「院展洋画部を落ちて」(今田敬一『北海道美術史』昭和45年、北海道立美術館)函館に流れついた小村悳南(本名・直太郎)を中心に沖田久吉、金森忠愛、平岡字三郎の4名が洋画団体・青空社を結成し、末広町海交倶楽部を会場に同年6月1日から8日まで油彩画やペン画の総計43点を展示公開した(6月4日付「函新」)。それらの画風は、出品目録所載の作品図版から判断する限りでは、岸田劉生が率いる東京の草土社出品作に近似しており、写実を基調に一種宗教的な情感を漂わせたものであった。また目録の中扉には聖書の一節が引用され、小村の挨拶文もレンブラントやゴッホの作品を宗教的精神主義の観点から説明するなど、大正期の主要な文学思潮をかたちづくった白樺派の影響が色濃い点においても、青空社は草土社を模倣した団体であったといえる。なお同展目録には「宮武西洋画会」と同様の趣旨の「小村悳南書畫会」の広告が掲載されており、このころから函館で洋画が″商品″となり得たことがうかがえる。
 このように、大正期前半の函館では、洋画の小団体が次々と誕生し、大小さまざまな個展やグループ展が開催されて洋画隆盛の気運を準備していた。このほか注目すべき現象としては、新聞紙上に単なる展覧会紹介記事ではなく、観覧者による展評が掲載されるようになったことが挙げられるが、その常連ともいうべき存在となっていたのが、Y生こと山本行雄[明治35年−昭和37年]であった。国後島に生まれ、函館で育った山本は、高桑が函館中学校を卒業したのちの鈴蘭画会の中心メンバーであり、大正5年11月と6年7月の同会展にも出品し、なかでも後者の出品作は新聞紙上の展覧会紹介記事でも賞賛を受けていた(大正5年11月23日付「函新」、6年7月3日付「函毎」)。さらに大正7年、中学校4年生の時には、9月30日、10月1日、2日付の「函館日日新聞」に「二科会の傾向を論じて、新興美術の将来に及ぶ」と題した論文を寄稿している。そして、後に述べるように、この山本行雄こそが、大正8年以降に急速に動きだす大正期函館洋画壇の形成に大きな役割を果たすことになるのである。

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