通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
4 戦後不況と躍進の海運界

戦後の海運不況

近海郵船の設立

海外航路網の拡大

ウラジオストク航路と大阪商船

カムチャツカ航路

樺太航路

北千島航路

上海航路と台湾航路

函館市補助航路と近海郵船

上海航路と台湾航路   P501−P504

 明治期における函館は北海道産海産物の中国向け市場の一大集散地であった。大正期に入ってもそうした事情は大きく異なることはなかったが、海運事情に変化が見られるようになる。それは上海直航便の登場である。それまでの函館は輸出先の上海行きの直航便を持っておらず、不定期便や接続便に依拠せざるを得なかったが、貿易振興という大義名分もあり直航便開設に向けての各種の要請活動は盛んに行われていた。
 明治38年5月と12月に函館商業会議所では時の内閣総理大臣に建議書を提出したのを皮切りに、同44年には農商務、逓信大臣あて、また同年10月の全道会議所連合会(小樽で開催)では連合会会長名で両大臣および北海道庁長官あてに建議書を提出し、さらに大正元年9月の奥羽北海道会議所連合会(札幌で開催)でも決議、建議している。しかし、なかなかこの運動は功を奏さなかった(大正3年5月15日付「函毎」)。この間明治44年には北海道産の塩魚が中国市場に輸出され、活況を呈すると北海道と上海との間には定期便に類する就航をみるようになった。しかし「定期船と雖も僅かにその船腹の三分の一…に止まり…社外船の如きも十、十一両月中は殆どその出現を見ざりし」(明治45年1月23日付「函毎」)とあるから名目的な定期船というのが実態のようであった。これは同年10月に辛亥革命が起きると直ちにその影響を受けて就航状況も減少した。
 函館と上海との間に正式に直航便が開設されたのは大正2年のことであった。この2年には5回、翌3年には9回に及ぶ直航便が就航した。2年の『函館港外六港外国貿易概況』は、この年の中国貿易について「郵船会社ニ於ケル上海直航船ノ開始等ハ一層ノ好況ヲ加ヘタルニ依ルナルベシ」として、直航便が対中貿易の活況をもたらした要因の1つとしている。函館から輸出する場合の上海便は繁忙期に臨時直航便、あるいは神戸へ送り、そこから上海便に接続するといった接続便によっていたが、この日本郵船による上海直航便は中国への海産物輸出に大きく貢献した。例えば大正3年3月25日には郵船の酒田丸が三井、大倉組、加賀商店、それに中国商人の積荷、昆布4400トン、塩魚750トン、枕木20トンその他を搭載して出航している(大正3年3月26日付「函毎」)。函館商業会議所ではこうした動向を踏まえて大正3年5月14日に北海道庁長官あてに次のような意見書を提出した。近年、函館及び根室の貿易業者が中国中央部および揚子江一帯を視察して、塩鱒は試売にも成功し、今後の有望商品である。輸出計画に大きな飛躍を求めるとすれば該方面への定期航路がなければその実現は危ぶまれるとして、上海直航便の定期命令航路開設を要望したほどであった(大正3年5月15日付「函毎」)。
 函館からの外国航路は直航便の比率が極めて低く、横浜や神戸で国外便に連絡し、そこで積み替えが行われた。貿易港としてその損失は少なくなく、直航便の定期化を求めることは自然なことであった。上海直航便は日本郵船が独占的に実施していたが、配船状況によっては郵船の就航便が減少することもあった。『殖民公報』(第94号)によれば大正5年の郵船による航路は前年の6航海に対して船舶不足のために3航海しかなされていない。しかし他社の上海直航が多数あるためにむしろ函館からの上海直航数は全体としてみれば増えているとあるように、郵船以外にも数社が直航便を就航させるようになった。やがては函館に海産物が殺到する秋口には上海直航船が数十隻配船されるようになり、また大量輸送の場合は荷主が個別に用船して上海直航便を就航させていた。なお、近海郵船の成立とともに上海便は日本郵船から同社へと委譲され、近海郵船が引き続き継承していった。
 大正末期になると、こうした函館直航便とは別に昆布生産地である根室と上海との航路を開設する動きが盛んになる。大正14年に根室では上海への定期航路実現へ運動を開始した。まず根室町では9月〜12月の期間に4航海を条件に町補助を支出することにした。翌15年には根室物産組合長以下が来函して会議所等へ開設促進の要請をし、さらに函館、釧路、根室の3港が提携して同年2月末に函館でこの3者が集まり、定期航路開始を議決した。これに対して各海運会社は受命指定を得ようとして近海郵船、川崎汽船、山下汽船、島谷汽船などが猛烈な競争を引き起こした。これは結局命令航路という形をとらず自由航路となったが、近海郵船は同年3月に根室・上海線を開設し、冬期を除き毎月1回または2回の定航を行い、釧路や函館に寄港した。さらに川崎汽船も4月から同じく上海航路を開始した。両社は貨物集荷に努め、この結果対中国貿易にすくなからぬ成果をあげた(昭和元年『函館市事務報告書』)。両社による競合的な運航が運賃低減という結果をもたらし、前年より2割下がった。この結果函館の海産物輸出は伸展した。
 つぎに台湾航路についてであるが、台湾は函館にとり塩鱒の消費市場であるとともに中国市場への中継市場の両面を持っていた。従来函館から台湾への輸出は神戸や門司経由であったが、明治42年9月に岡本忠蔵は北海道セメントと協定を結び汽船苫島丸(1500トン)をチャーターし、岡本の塩鱒4000石とセメントを輸送したが、これが函館から台湾に直航した始めであった。同43、4年頃に日本郵船函館支店は横浜・台湾線を函館まで延長した。これが函館・台湾定期航路の開始である。同航路は大正4年には17航海、5年は全国的な船舶不足のために8航海にとどまった。しかし塩鱒・鯣・澱粉・豆類の市場として函館からの船舶就航数は増加傾向を示した(『殖民公報』第94号)。なお郵船によるこの航路は大正10年頃に廃止され、門司経由となった。これは門司・台湾の航路が増加したためであり、函館からの積荷が減少したわけではない。函館の荷主はこうした措置に特に不便を感じなかったという。大正12年頃から門司・台湾航路は郵船独占から大阪商船系統の北日本汽船が参入し、昭和4年頃は山下汽船、川崎汽船の参入、函館からの便は近海郵船、北日本汽船の西回り航路の門司接続となった(『南支那及台湾に於ける海産物取引事情』)。
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