通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
||||||||||||||||||||||||||
第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 樺太航路 |
樺太航路 P497−P500 日露戦争前の樺太航路は出漁にかかわるものが大半を占めており、樺太の漁業経営者の多くが函館を根拠としたこと、出漁者への仕込み、漁獲物の市場としての機能などを持っていたことから函館からのものが多くを占め、ほかに小樽からの出入りもあったが、いずれも出漁期と切揚期に集中した。しかし定期航路は、大家商船による函館・小樽・コルサコフ(後に大泊)間の往復を含む逓信省命令航路のみであった。ところが戦後に南樺太が領有化されると、海運状況は大きく様相を変えていく。樺太漁業の経営拡大に伴い日本郵船、大阪商船や社外船など広範な海運業者の参入がみられるようになる。南樺太を経営するための移民政策、これに伴う物資輸送等と従来の漁業関連に止まらない海運需要が喚起されていったからである。そうした動きを敏感に察知したのが函館および小樽の両経済界であった。明治38年8月には両方の商業会議所会頭が揃って函館発小樽寄港大泊行きの航路を国に開設するように道庁に建議した。こうした動きに歩調を合わせるように航路を開始したのは日本郵船であった。同月、函館発の田子浦丸を臨時便として就航させ、小樽経由で大泊に向かった(明治38年8月18日付「樽新」)。9月にはこの便を定期化したが、翌39年には逓信省の命令航路・クシュンコタン線となった。この便は小樽・稚内・大泊線を函館・小樽線と接続するという変則的な航路にしたため、いくぶん函館に不利に働いた(『函館海事局管内航通運輸ニ関スル報告』第6回)。そこで函館の商業会議所が中心となり、道庁や政府に対して函館・樺太の直航便を開設する陳情を行い(函館商業会議所『明治四十年統計年報』)、明治43年に逓信省は函館・小樽・大泊・真岡の往復航路に改編した命令航路の樺太線を日本郵船に命じた(『殖民公報』第54号)。
小樽起点の2線の命令航路は、明治末には西海岸へ5線、東海岸へ3線と拡大され、日本郵船のほか、大阪商船、小樽の山本久右衛門、増毛の本間合名会社の各社が担当していた。しかし各線とも成績不振であったばかりではなく各線の発着が不統一であったため、交通機関としての機能を欠く面があった。そこで樺太庁は各船主に合同を勧め、大正3年3月に北日本汽船(株)が創立された。大阪商船を筆頭株主に函館の佐々木平次郎、日魯漁業の中山説太郎、小樽の山本厚三、山口の島谷徳三郎らが加わり、資本金は100万円、本店は樺太の大泊栄町、営業所を小樽に設けた。佐々木は監査役に就任した。大阪商船の大礼丸、筑後川丸、山本厚三、本間の所有船、島谷の天佑丸、佐々木の二見丸を継承した。北日本汽船の命令航路は小樽を起点とする9線の樺太東西両海岸線であったが、小樽以南は自由航路とし、便によっては函館と接続した。大正5年に従来、小樽を起点としていた路線の一部が函館を起点に改め、函館樺太西海岸線(函館・小樽・西海岸経由で安別行き、後に安別線となる)、函館樺太東海岸線(函館・小樽・大泊・東海岸経由でタライカ湾の能登行き、後に能登線となる)の2線を開設した。さらに8年には大阪・函館・小樽・樺太間の西回り定期線を、10年には東京・函館・小樽・樺太間の東回り定期線を開始した(『北日本汽船(株)二十五年史』)。なお逓信省の命令航路を受命して年間に40数回以上の定期便を就航させていた日本郵船では9年3月に同航路船の新造船の導入を決定し、砕氷船千歳丸(2668トン)が翌10年6月に横浜船渠で竣工した。大正10年代には日本郵船が経営した航路は同社から分離した近海郵船に移行したほか、いわゆる自由航路として北日本汽船や近海郵船による函館と樺太間、あるいは樺太と関西方面とを結ぶ不定期便が多数就航している。 このほかに南北樺太を経由して対岸のニコラエフスクへ向かう便について一言触れておこう。函館・尼港線と表記されるこの航路は大正9年に逓信省の命令航路として開設された。函館を出港し小樽を経由し、大泊、真岡、そして北樺太のアレクサンドリア、デカストリーを経てニコラエフスクまでの航路である。年に10回以上の航海であり北日本汽船が受命した。 |
|||||||||||||||||||||||||
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第3巻第5編目次 | 前へ | 次へ |