通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
4 戦後不況と躍進の海運界

戦後の海運不況

近海郵船の設立

海外航路網の拡大

ウラジオストク航路と大阪商船

カムチャツカ航路

樺太航路

北千島航路

上海航路と台湾航路

函館市補助航路と近海郵船

北千島航路   P500−P501

 日露戦争後にカムチャツカでの日本人による漁業経営が可能となると、カムチャツカ出漁の途中ということから北千島の漁場も開発されるようになり、シュムシュ(占守)島、パラムシル(幌筵)島の沖合でタラ延縄漁業や河川におけるマス建網漁が始まり、明治43年からはシュムシュ島にタラバガニの缶詰工場も建てられ、ようやく北千島でも漁業経営が定着した(秋月俊幸「千島列島の領有と経営」『近代日本と植民地』1所収)。
 こうしたことを背景として大正3年5月、函館商業会議所は北千島開発のために道庁や国に対して定期航路の開設を建議した。北千島漁業従事者は明治41年以降次第に増加しており、年産額が漁獲物や缶詰で50万円にものぼり、鱈鱒蟹漁のほかにトロール、そして硫黄生産も将来性が高い。占守島はカムチャツカと相対し、幌筵海峡には良港が多く、遠洋漁業や日口貿易の基地として前途多望である。函館は従来から露領、千島漁業の策源地であり、直接的な経済関係が深いので、函館と北千島の定期命令航路を開設するべきであるというのが、その趣旨であった(大正3年5月15日付「函毎」)。直後の19日付けの同紙には以前から当業者が道庁に要請しており、前年の2年に道庁は実地調査を終えており、寄港地も決定し、受命会社と交渉中であり、択捉線の延長という声もあったが別に開設、日本郵船が受命、釧路、根室、千島は8か所寄港の予定と報じている。
 函館側の要望に北海道庁も応えて大正4年から道庁命令航路の1つとして北千島定期航路(函館−占守・幌筵間)が年4回日本郵船によって開設された。当初は日本郵船が経営、のちに組織の再編により近海郵船が継承した。郵船は、1万2、3000トンクラスの汽船を4月から9月に毎月函館から北千島との間で物資の供給、漁獲物の輸送、旅客の輸送、その他通信運搬に従事させ、一航海に占守、幌筵、阿頼度の3島を20日の日程で運航した。またこの間根室、択捉の紗那、別飛に寄港した。昭和7年からはこの命令航路とは別に橋谷汽船が毎月航海を開始した(『産業北海道』)。
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