通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 1 不況に苦しむ函館商業 商業の変貌 |
商業の変貌 P312−P316 北海道の商業は、卸が小売りを兼ね、あるいは小売りでも雑貨的形式のものが多いなど、未分化な側面が強かったが、第1次世界大戦の好況期に、卸と小売りの分離や単一品目への専業化など機能分化がすすむといわれる。日本の工業化の進展にともない、大量で、多様な商品が消費市場に出回り、生活文化面でも、洋風化が急速に進展した。明治45年札幌の五番館が北海道で最初に百貨店方式を採用し、大正5年には、札幌の今井が百貨店として発足した。函館のが百貨店に切りかえられるのは、旭川、小樽支店とともに、大正12年のことである。同15年には金森森屋も百貨店となった。近代的小売業の象徴でもあった百貨店は、関東大震災以降、大衆化の途をたどり、店内下足預かりから土足の採用がおこなわれ、不況が長びくと、日用品販売に廉売方式を採用するなどしたため、他の小売店との軋轢もうまれた。函館の百貨店は呉服店として出発した今井と洋物店からはじまった金森森屋であったが、そのほかに、個人経営の呉服商から出発した荻野商店も、金森森屋の百貨店転向にともない、少しずつ経営を百貨店方式に改めていった。 公設市場の設立と私設市場の乱立も、第1次大戦期からその後の不況期を特徴づけるものである。 第1次大戦の好況は物価の高騰をもたらし、大正7年には米騒動がおこるなど、庶民生活を圧迫したので、大正8年物価の調節をはかるために各地に公設市場が開設された。函館にも同年12月1日西川町125番地に開設された。公設市場は、札幌などには多数設立されたが、昭和7年度末の函館の公設市場は、函館恵比須町公設市場と函館高砂町公設市場である。恵比須町公設市場が店舗数17、売上高21万1347円、高砂町公設市場が店舗数3、売上高2347円で、恵比須町公設市場は、昭和9年度から宝町公設市場と改称された(『函館市誌』)。 公設市場の設立に刺激され、また、その利用価値が注目されて、私設の市場が乱立した。小売市場の開設には、なんらの法的規制もないため、偏在、集中する傾向を生み、過度の競争から購買者の信用を失ったり、一般の小売商に影響を及ぼしたりしたため、道庁では昭和8年に小売市場の規則を定め、規制にのりだした。函館における昭和13年末の小売市場は表2−17のとおりで、その乱立ぶりがうかがえる。
第1次世界大戦後の不況から昭和恐慌期を通じて、中小工業と同様に、中小商業の振興と更正が問題となっていたが、同業者の過多、百貨店など大商業資本の進出、生産者や消費団体の流通面への進出、金融の不円滑、経営の不合理などのために、ますます深刻化していった。商業の実態が把握しにくいため、昭和6年から大都市を中心に商業調査がすすめられ、函館でも、昭和10年8月10日を期して、函館商業会議所により調査が実施された。その成果である『函館市商業調査書』によって、函館の商業の実態をみることにしたい。 函館の物品販売店舗数は4970、1店舗当たりの人口41.7人、1店舗当たりの世帯数7.9世帯である(物品販売業には、接客業を含まず、また、百貨店2、駅や病院の売店4、卸市場3、小売市場12、証券売買業6、露店433を除外してある)。東京、大阪、京都、名古屋、横浜、神戸の6大都市と比較すると、1店舗当たりの人口は最大の神戸の36.4人を上回り、1店舗当たりの世帯数では、最大の神戸の8.3世帯を下回っている。 これを業態別にみると、小売業が圧倒的に多く、全体の64.3%、1968店を占め、製造小売業21.8%、667店、卸小売業341店、11.1%、卸業87店、2.8%の順で、卸業はわずか2.8%に過ぎない。6大都市においては、卸業の比率の小さい横浜でも、4.4%を占めている。『調査書』は、「これによって見れば函館市の配給機関は二・八%の卸業によって八六・一%の小売業が営まれてゐる形になるのであるが、函館市の卸業の多くは函館市を中心とする郡部の小売業に依存する点が多い実状にあるのであるから、実際に於ける配給機関の系統より見れば本市の卸業は小売業に配給機能の上にさまで大きな役割を演じてはゐない。これが欠陥は出張員等による先進都市の卸業によつて補はれてゐると考へられる」と、函館市の卸業は、函館を中心とした郡部に依存しているため、函館市の小売業に果たしている役割はそれほど大きいものではなく、その穴は、先進都市の卸業者が派遣する出張員によって埋められているとした。また、小売業の比率の高さは、横浜についで全国で第2位であろうと推定した。企業組織別にみると、個人経営が全体で96.6%、小売業にいたっては98.2%にのぼっている。
中小商業は、幾多の問題点をかかえていたが、日中戦争が泥沼化し、この商業調査も生かされることなく、函館の商店も戦時統制経済にくみこまれた。 昭和13年以来、重要物資を軍備の充実と軍需生産の拡大にあてるため物資動員計画をたててきたが、生産と生活に要する物資も統制の名のもとに管理され、函館でも昭和13年以降、市役所の音頭で多くの配給・統制対策の会合が持たれ、全道に先駆けて「マッチ切符制」が実施された(表2−18)。 昭和16年12月には国内の物資を一元的に統制するための物資統制令が公布施行された。そして翌17年2月1日から衣料切符制が実施された。昭和17年2月20日公布の食糧管理法により、生産物は必ず国家が買い上げ、同時に食糧営団を設け配給機構を整備した。大企業には統制会や営団が設けられたが、中小企業については、昭和16年12月13日から実施された企業許可令と昭和17年5月15日から実施された企業整備令によって、整理、編成がおこなわれた。企業許可令では、事業の開始・委託・相続、あるいは設備の新設・拡張・改良には、行政官庁の許可、あるいは指定統制会の承認が必要となり、企業整備令により、企業整備が必要となれば、政府が強制的にこれを推進することがきるようになった。昭和17年5月15日政府は小売業の整備要綱を発表するなどして、小売業を再編整備し、物資の配給組織にかえていったのである。 |
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