通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
1 函館の経済界

1 不況に苦しむ函館商業

移出入の推移

苦悩する函館経済界

流通経路の変化

函館水産販売(株)の設立

仕込取引の衰退と函館の海産商

商業の変貌

函館水産販売(株)の設立   P304−P307

 第1次世界大戦の不況から昭和恐慌にいたる過程で、企業の提携や合同がすすめられる一方で、生産者団体や消費者団体の活動も活発化し、販売の統制や中間経費の節減などがすすめられたので、流通に介在して利益をあげてきた商人たちは、非常に苦しい立場にたたされた。
 さきにみた「函館海産物市場」が「商権維持上生産者に対する共同買付会社を設くるは将に機宜の処置であるまいか。本問題は両年前市の有力なる資本家が百万円の巨費を投じて之が設立を計画し、其機運は大に促進せるも中途にして中絶せる事があったが、甚だ遺憾の極みである。然らざるに於て幹ては更に漁業家が商人を除外して益々直接販売を為すに至るべきを以て、此設立は急務の上にも緊急なる方法であろう。現に缶詰の如きは生産者が商人を除外して直接に産地より海外に直輸送してゐるではないか。缶詰と塩魚とは取引状態に自ら差違は勿論あるが、然し道理に於ては元より同一の事業であるから、此点は市場商人の再思熟考を望んで止まぬ所である」(大正2年2月1日付「函新」)と述べているように、大正期に函館海産物市場商人によって塩魚の買付会社が企てられていたのである。函館水産販売(株)の設立は、その実現といってよく、露領漁業における企業合同の進行、日魯漁業(株)によるその独占ともかかわっていた。
 日魯漁業(株)は、大正13年に大北漁業の三菱持株の譲渡をうけて、露領漁業の独占体制を確立し、昭和7年には中小企業、個人漁業家との合同がなり、露領漁業のほぼ完全な独占企業体となった。日魯漁業の塩魚販売を担った函館水産販売の前身は、昭和2年に結成された函館日魯組結成にさかのぼる。
 昭和2年10月8日付「函館新聞」は、「日魯製品販売権、特約の日魯組に指定し、一船商人は大打撃」の見出しのもとに、日魯組結成の事情を、「日魯漁業会社では鮭に対し、将漸次冷凍荒巻製造を理想として、本年は取敢ず冷凍汽船にて約六万五千函を製産し、内地方面に仕向けたが、其結果は頗る良好であったので、更に今後は二十万函の製造を計画すると共に、食糧□節上中間経費を節約する為め、内地の主要地に於ける売価の如きも□制をとり、需要者の便益を理想として、同社の指定したる日魯組以外には取引せざる方針に今春決定をみた」と伝えている。日魯漁業では、昭和2年から冷凍船隊を保有し、冷蔵品、新巻などの生産を充実する方針をとり、塩蔵鮭鱒の国内の販売業者の組織化が企てられた。
 そのため、全国に販売先をもって競いあっていた函館の大手海産問屋の中から、加賀与吉商店、森卯兵衛商店、柳沢善之助商店、細谷伴蔵商店に、鮮魚問屋から出発した高村善太郎商店を加えて匿名組合「日魯組」を結成させた。昭和2年10月10日付け「函館新聞」によれば、5店で20万円を日魯漁業に対して積み立て、日魯製品の販売権を獲得した。
 この函館日魯組を元扱業者とし、その傘下にあった全国の塩魚問屋に都市あるいは県単位に日魯組を結成させ、これら日魯組に結集した商人を函館日魯組組合員の専属買受人とすることにより、塩蔵鮭鱒販売の全国チェーン化をはかろうとした。
 もちろん、ほかの函館の有力海産商が黙っていたわけではない。函館日魯組の結成が明らかになると、函館海産物市場にとって重大問題であるとし、10数名があつまって共同組を組織し、販売権獲得するための活動をはじめた。昭和2年11月4日付「函館新聞」は、日魯漁業の平塚常務と会見した函館海産商同業組合海産部委員の談話として、「日魯会社としては本年度の製品は日魯組に対して全部の売買契約を済ました関係上、共同組に対して直売の形式を執り得ざるも、一割五分だけ日魯組の諒解を得て共同組がこれを購売し得るやう協調さるるを可とすと、平塚常務より会社側の意のある所を述べたる由で、明年度に於ては販売に対し門戸を解放の上、日魯組、共同組とも同等の権利の下に直売さるるものであるといふ。尚海産部(委)員は四日海産部会にこれを報告の上、日魯組との協調を計り、前記一割五分を日魯組より購売せしむるものなりと」報じている。函館海産商同業組合の仲介により、この年は共同組が日魯組から一割五分を購入することで決着をみたようである。
 ところが、翌4年函館日魯組は、鱒の不漁年にあたっていたため日魯漁業と高値の取引価格を行ったうえ、思惑買をしたところ、択捉島の鱒が大豊漁だったため、鱒の市価が大暴落し、函館日魯組は再起不能に陥った。函館日魯組組合員を存続させることが得策だと考えた日魯漁業が、その救済策として提示したのが函館水産販売(株)である。

函館水産販売(株)社屋(『高村善太郎』)
 昭和5年7月7日設立、資本金50万円、日魯製品の独占取扱の特権が付与された。日魯漁業が一部出資したほか、旧日魯組傘下の各地の海産物商が株主となった。社長末富孝治郎、副社長太刀川善吉、常務が高村善太郎と大川原善蔵である。函館水産販売の日魯製品の一手取扱に対しては、旧来の取扱業者、海産商の強硬な反対があったが、これらも株主として傘下にとりこみ、あるいは専属仲買として口銭を与えることにより、販売統制にすすんだ。昭和9年5月20日函館水産販売の主導により全国の有力な鮭鱒の販売業者を網羅する日本鮭鱒販売連盟会が創立された。
 日魯漁業は昭和7年に露領漁業の合同をなしとげたのをはじめ、傍系の漁業会社などをして母船式鮭鱒漁業や北千島の鮭鱒漁業を統制下におさめたので、函館水産販売もそれと共に発展し、日本鮭鱒連盟会の会員は5大都市、地方主要都市、および台湾、大連、上海に及び、内地市場はもとより、台湾、朝鮮、中国などの鮭鱒市場は一手に同社に帰したといっても過言でなかった。
 公定価格の設定などからはじまった戦時下の販売統制は、次第に進展し、昭和16年には北洋鮭鱒の国内配給を担当する日本鮭鱒配給(株)が設立されたため、函館水産販売の主要取扱品である塩蔵鮭鱒の配給権が吸いあげられ、単なる統制機関の指定業者となり、事実上の役割を終えた。
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