通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 1 不況に苦しむ函館商業 移出入の推移 |
移出入の推移 P295−P298 大正9(1920)年に第1次世界大戦の激しい反動不況に見舞われた日本経済は、政府のその場しのぎの救済策のために、浮沈を繰り返しながら慢性化し、昭和4(1929)年の世界恐慌の波にのみこまれた。景気が回復するのは、昭和6年の満州事変をへ、昭和7年に入ってからである。大正6年末の金輸出再禁止による為替安に支えられ、昭和7年には輸出が好調に転じ、諸国に先んじて景気を回復した。また、満州事変以降の中国大陸への軍事侵略、布告なき日中戦争、15年戦争により重化学工業に主導された軍需景気に潤された。
北海道の管外移出は、大正10年2億4730万円余から大正14年には3億8700万円余に上昇。以後、停滞し、景気の底をうつ大正6年には2億3804万円に下落した。昭和7年より景気が回復し、昭和12年には5億8993万円余をかぞえた。管外移入も同様で、大正10年の2億2901万円余から大正14年には3億8751万円余に上昇し、昭和6年には2億5082万円余に下落し、以後、上昇に転じている。 函館の場合も、全道とほぼ同様の動きをみせているが、北海道全体に対する比重が増加しているのが注目される。管外移出では、大正10年36.8%であった函館の対全道比は、大正14年41.2%、昭和4年42.1%と上昇し、昭和8年、12年とも37%台を維持した。管外移入の場合は、もっと極端で、大正10年40.2%であった対全道比は、大正14年60.7%、昭和4年63.8%と60%台にのり、昭和8年、12年も50%台で、管外移入の過半が、函館を経由した。しかし、これは、後に具体的にみるように、青函貨車航送の実施にともなう鉄道輸送の増大を反映するものにほかならない。また、函館の管外移出入価額についても、大正末から昭和初年にかけて、全道の場合と同様に緩やかな上昇がみられるが、物価の上昇なども考慮しなければならないのであって、実際には、この間、景気の停滞が続いていたのである。
管外移出においては、水産物の比重に低下が目立った。大正14年には52.0%と全道の過半を占めていたが、昭和4年47.7%、昭和8年40.2%と減少を重ね、昭和12年には33.0%に落ち込み、水産物の集散市場として地位が崩れていった。 大正9年中国の日貨排斥が解決をみないうちに、大戦の反動による株式市場の混乱と貿易品の暴落、あるいは船舶チャーター料の下落による繋船の増加は、経済界を不安におとしいれた。その後の慢性的不況の幕開けであり、本格的な景気の回復をみないままに、昭和初頭の金融恐慌、世界恐慌に見舞われるが、これに加えて北海道の農、漁村は激しい凶作、凶漁に見舞われ、疲弊した。北海道の漁業の中心であった鰊漁業の漁獲高をみても、昭和2年1億7413万貫余を数えたが、昭和4年8194万貫余、昭和5年8736万貫余と半分以下に落ち込んだ。大正期から頻発する中国における日貨排斥により、昆布、海参、貝柱、乾鯣など中国向輸出品の商況は不安定にならざるをえなかった。また、昭和恐慌のもとで進行する農業恐慌により、農産物、農産加工品が大暴落し、これにともない重要な管外移出海産物であった魚肥の価格が急落するなど、函館に居住する海産物取扱関係商人の経営を圧迫した。
表2−15から函館管外移入価額の産業別構成の動向をみると、工産物は昭和4年に48.8%と5割を割ったが、大正14年、昭和8年、同12年とも55%を越え、農産物も1割前後で推移した。多種多様な工産物と、米を中心とする農産物の移入が軸となっていることには、変わりがなかった。道産米の作付は、大正の後半から急激に増加したが、大正末期から安価な朝鮮米、台湾米が国内市場に流入し、道産米の流通を圧迫した。さらに注目されるのは、管外移入水産物の比重の漸減である。大正14年に7.3%であったものが、昭和12年には1.9%にまで落ちこんだ。管外移入水産物の中心をなした樺太から、鰊締粕や塩鮭鱒が函館に出回らなくなったからにほかならない。 |
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