通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


「函館市史」トップ(総目次)

第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
1 函館の経済界

1 不況に苦しむ函館商業

移出入の推移

苦悩する函館経済界

流通経路の変化

函館水産販売(株)の設立

仕込取引の衰退と函館の海産商

商業の変貌

流通経路の変化   P301−P304

 流通経路の変化を統計的に表すことは難しいが、『昭和二年北海道年鑑』(北海出版社、昭和2年8月発行)に、比較的詳しく、大正13、4年頃の「本道主要産物需給運輸」の状況がでているので、これによって、函館海産物市場にかかわる塩乾魚や魚肥の需給、運輸の状況をみてみよう。
 当時の日本における塩干魚の大量生産地は、北海道、千島および樺太沿岸であって、これに露領沿岸漁獲のものが北海道の市場に出回った。北海道市場に出回るものは、年による豊凶によって違うが、年間80万〜90万石といわれていた。
 北海産塩乾魚の商権は、函館市場の商人がほとんどを掌握しており、北海道に出回る塩乾魚の7割は、函館市場に集散したといわれる。その他では、小樽市場が2割、森、釧路、根室などが残りの1割である。しかし、函館市場に出回るとされる7割のうち、函館市場に基礎をおく商人が、産地に手をのばし、産地より直接他府県、あるいは中国方面に移輸出されるものが、かなりの量にのぼっているという。
 これら道内市場に集散する塩乾魚のうち、約7割は鉄道便によって関東、東北、その他の小問屋商人や市場商人の手に移出された。残り3割が船舶便により、主に東京、四日市、大阪、神戸、その他の大問屋商人の手に移出され、一部は中国方面に輸出された。
 北海道産魚肥の産額は、年間約100万石といわれ、わが国第1の産地であった。これらは、函館、小樽の中央市場、その他の小市場に集散した。道産魚肥の集散市場としては、函館と小樽とで従来、勢力が互角であるとされてきたが、大正13、4年ころには、小樽が6割、函館が3割、その他が1割とされている。函館、小樽には、樺太産鰊粕がかなり多量に集散していたのであるが、最近では、函館、小樽に経済的基礎をおき、樺太から直接に他府県に移出されるものが多くなっているという。樺太の漁業家の多数が函館に基礎を置いていたため、樺太産海産物の大部分が函館市場に集散してきた。魚肥の集散市場として、小樽と比べ函館の比重が低下したのは、樺太から直接に府県に移出されるようになったことの影響が大きいのであろう。
 西海岸では大部分が小樽に集散したが、最近では余市に集散するものが、次第に多くなった。東海岸の魚肥が主として函館に集散した。北海道産魚肥の運送状況をみると、船舶便によって移出されるものが6割、鉄道便によるものが4割である。船舶便の仕向地の内訳は、京浜12%、伊勢湾30%、阪神および尾道10%、残りが伏木その他の8%の計60%。鉄道便による仕向地の内訳は、東北地方20%、関東地方10%、静岡地方、その他の10%の計40%である。
 以上みたように、北海道産海産物の府県移出にあたっては、塩乾魚類で7割、大量輸送貨物で魚肥で4割が鉄道便に依存しており、長期化する不況の中で、中間経費節減のため、生産地と消費地を直結する取引が拡大する条件が整っていたといえよう。函館海産市場の魚肥の集散について、「小樽と同様に函館に商業上の根拠を有するに拘らず、実際は同市場に於て集散することなく、同地商人の手により直接産地から府県に移出せられたるもの可成ある」としているように、函館市場の商人自体が、生産地からの移出を模索していたのである。また、塩乾魚類の鉄道輸送について、「札局管内に於ては函館(発送)を第一とし、次に青森発送の多いことに着目すべきである。茲に青森を特記したのは、此の発送中七割、即ち三万屯内外は函館市場集散にかかるものなるが故である。従来青函間に於ける鉄道輸送力の不足の為、函館市場より省外船により青森へ回送し、同所より発送せられて居たのである。本年(大正十四年)貨車航送開始せられて以来、余程輸送力の増加を見、これが為に青森回送の約四割は函館発に転化したのである。貨車航送開始以来、北海道全道に於て之れに依る希望の漸く増加せる為め、現在の一日八百屯乃至一千屯では尚不足の状態である。此内函館に於て使用するものが約四割であるが、同地商人は青森発塩乾魚を全部函館発転化し得る迄の航送力の増加を希望している」と述べているのも注目される。確に青函貨車航送力の増強は、函館海産物市場にとって有益ではあるが、一面において産地から鉄道便による直送も可能になるからである。
 昭和2年4月発行の阿部覚治著『海産市場之本質と其振興策』(函館叢書第8冊、紅茶倶楽部)は、

 偖、海産市場として函館は、地理的に恵まれて居ると致しまして、茲に最近憂慮に堪へない傾向が、我函館に生じて来たのであります。それは荷物が函館に来ないで産地から需要地へ直航すると言ふ事であります。但しこれは以前からも行はれて居ったのでありますが、殊に近頃この傾向が著しくなって来たのであります。例へば、根室や釧路、厚岸の昆布が函館へ出て来ずに上海へ直航する。同様に又小鰊粕や魚油も一度総て函館に来たものが需要地へ直通する。樺太の魚粕や棒鱈も殆んど函館へ来たものが需要地に直行する。南部や江差の干鯣も、内地は勿論、台湾迄も直航する。カムサツカの鱒は小樽で石炭を取って上海へ直航する、と言ふ様な次第で、まだまだ実例は枚挙に遑ない程あるのであります。
 但しこの産地から需要地へ直行して居るのに対して意見が二つに別れる。一つは悲観論で、一つは楽観論であります。悲観論者の意見は、こんな調子ではだんだん函館へ荷物が来なくなるだろう、実に由々敷一大事であると言ふのです。然るに楽観論の言ひ分としては、樺太から鰊粕を尾の道へ直行したのも函館の商人である。根室の昆布が上海へ直航したと言ふても仕事の実権は函館の商人と函館在留の支那人が握って居る。カムサツカの鱒が小樽で石炭を取って上海へ直行したと言ふても函館の連中がやったのだ。江差から台湾へ干鯣が直行したと言ふても函館の商人がやったのだ。厚岸の魚油が直行したと言ってもそれも函館の商人がやったのだ。故に何と言ふても海産物は函館の商人の仕事である。何にも悲観する事はないと言ふのであります。

と、函館商人の主導により、函館市場を経由しないで、生産地から直接に移輸出されている状況を記している。大正末期から昭和初頭にかけて、現物市場としての函館海産物市場は、かなり危機的であった。函館の経済や函館の繁栄を考えれば、楽観論をとることはできない。阿部覚治も、「函館の海産商が如何に旅から旅の仕事をして居つても、それは従たるもの副たるものであつて、主たる使命は、函館の港へ船を出入せしめ、函館の土地へ海産物を集散せしむるのでなければ、函館は海産物の市場と言へぬと言ふのであります。之にもつと的確な定義を下せば、海産物市場の本質は実物の集散地でなければならぬと言ふのが私の主張の根本であります。然らば如何にせばこの理想を実現する事が出来るか。これ実に一海産商の問題ではなく、挙市一致で研究せねばならぬ問題と思います」と、海産物市場の本質は実物の集散地であることを力説し、「挙市一致」の問題であることを強調したのである。
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第3巻第5編目次 | 前へ | 次へ