通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 1 不況に苦しむ函館商業 苦悩する函館経済界 |
苦悩する函館経済界 P298−P301 「函館新聞」は大正12年1月24日の夕刊から2月3日の夕刊にかけて、10に分けて「函館海産物市場」を特集した。内容的には、(1)函館の位置、(2)取引の変則、(3)施設の改善、(4)産地と投資、(5)経費節減の一、(6)経費節減の二、(7)経費節減の三、(8)商権維持策、(9)販路の拡張、(10)結論、からなっている。冒頭において、函館の位置を分析し、「我函館は漁業で以て今日隆盛を見た事は何人も認むる所である。現在に於ても漁業の策源地として露領漁業を掌握し、本道第一の海産市場と謳はれてゐる。海産市場の経済的位置は今更らしく茲に呶々するまでもなく枢要の位置を占め、之が隆替は直に函館経済の消長に至大なる影響を齎したのである。然るに此重要なる海産市場の趨勢を窺ふに、近時財界の不況に依って幾分動揺せるかの観を呈して居るが、這は大に注目且研究を要する問題である」と、函館経済の浮沈が函館の海産物市場の消長にかかっているとし、大正9年の第1次世界大戦以後の反動不況以来、函館海産物市場が動揺していると指摘している。すなわち、「戦時好況の反動的不況は世界的に経済界を悪化に導き、産業界は頗る疲弊せるが、我海産物も販路に、相場に二つ乍ら急激なる不振を招くに至った。一時は秋風落莫の感を抱かしむる位であったが、独り海産物に止まるものではなく、一般物価も同一の状態を呈し、所謂不景気が産業界を撹乱するに至った。茲に於て総ての事業家は業務の緊縮を図り、経費の節減に意を注ぐに至ったので、食糧品の海産物は、就中此不況の影響は甚大なものとなったのである。斯く好況が槿花一朝の不振を見たのであるから、之を観るに楽悲交々と云ふ始末で全く混頓たるものであった」と、事業家が不況の中で、業務の緊縮、経費の節減をはかった結果、食料品である海産物は、特に深刻な影響をうけたとしている。 具体的には流通経路、商取引の変化である。各地の商業家は、旧来の中継取引を排し、産地対消費地という直取引を模索した。昆布などの生産地であった釧路、根室では、直航を計画し、道外との直取引を奨励した結果、函館を経由しなくなったという。大正9年の反動不況の時には、商家も、銀行なども自衛本位にはしり、資金の供給をおこなわなかったため、露領漁業家は、資金回収のために急造商人になって、積取船のまま上海、大連、台湾はもとより、道外市場に直航し、直取引を開始し、函館商人もこれを黙認した。諸経費を節約した安価な製品が提供され、消費地で歓迎されたというが、荷送りの調節のないままに継続的に輸送されたため相場の下落をきたし、函館市場の相場も低落し、露領漁業家、函館の海産物取扱商人とも多大な損失をこうむった。これらに加えて、第1次世界大戦後の船腹の過剰や交通機関の発達が、産地と消費地の直取引を増加させているとしている。
日露戦争前後に、小樽に商権を奪われるのではないかとの危機感をいだいたのと同様の事態が生じていたのである。さきの「函館海産物市場」が、「之を観るに楽悲交々と云ふ始末で全く混頓たるものであった」としているように、大正12年当時においては、第1次世界大戦期の好況の余韻が残り、楽観視する者もなかったとはいえない。『函館商業会議所月報』第243号(大正15年6月発行)は、大正14年3月の日本の富力を推定するとともに、表2−16の各都市別の富力を掲載している。函館は全国で10番目、推定富力4億4525万円で、13番目の札幌3億7210万円、18番目の小樽3億5820万円を凌駕する実力をもち、まだまだ余裕があるようにもみえたのであるが、この不況は、日本経済の深部に根ざしており、世界恐慌に通じる深刻なものだったのである。 |
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