仕込取引の衰退と函館の海産商 P307−P312
昭和12年6月北海道庁経済部商工課発行『本道に於ける海産物取引事情』(商工資料第5輯)は、函館海産物市場の取引の変化について、次のように述べている。
近年漁業組合の販売統制と大資本の進出とが函館商人の地盤を狭小ならしめたことは小樽と同様であるが、此の外魚肥に於ては北連、全購連の産地、及市場への進出が著しく、現在函館商人扱で内地方面へ魚肥の移出されることは極めて稀である。
現在の取引は委託と買付と凡そ半ばして居るが、委託専門の店は現在四、五十軒、買付専門の店は約百軒と称せられる。然しながら函館市場で現在直接に産地と大口取引を為し得る商店は僅か五、六軒の輸出問屋に止まり、他は総て小口取引にのみ従事して居る。是等の店は函館の大手問屋より小口物を買付け之を内地商人に売渡すのである。斯かる取引は小樽市場では殆ど見られぬ所で、函館が斯かる取引を為し得る理由は函館市場が相当古くから内地商人と取引関係を有して居たこと、近年輸送機関の発達に伴ひ小口取引と雖も消費地よりの直接註文が多くなったこと、及取扱品目が小樽市場に比し多種に互り、比較的小口物の出廻りが多いことの為である。之に反して小樽市場は鰊製品を主とする為斯かる小口取引は函館に比し困難な事情にある。
函館の海産問屋には売人(売屋)と買人(買屋)の分業があったことはすでにみたが、ここで委託問屋といわれているのは、比較的資産、信用が厚く、専ら産地との取引をおこない、かつ仕込関係を有する者といわれた売人、売屋であろう。4、50軒といわれる委託問屋のうち、実際に産地と大口の取引ができる委託問屋が5、6軒になっているのは、仕込取引の衰退によるものであろう。『本道に於ける海産物取引事情』は、「函館海産物市場の歴史は小樽に比し相当古く、従つて〈仕込〉に依る産地との連携も亦古くから存して居た。此の場合仕込主は親方であり、被仕込漁業者が従属的関係に在つたことは小樽の部に於て述べたと同様である。然るに近年の財界不況と凶漁等に起因し産地漁業者に対する仕込金の回収率極めて悪化し、之が為海産問屋にして倒産したものが相当数に上つたことは小樽市場よりも多く、現在貸付状態に在る仕込金(殆ど回収不能と称せられる)は函館商人全体で約五百万円存すると言はれる程である。固定の激しい地方は日高、十勝近海の順であるが、近年漁業組合の販売方面進出と共に個々の漁業者は其の漁獲物の販売に就いて組合の規約に拘束される為個々に従来の仕込主に出荷し得ず、他面漁村の経済的窮迫と相俟つて仕込に依る旧債権債務は依然として取残された侭である。而して現在も函館海産商中三、四十軒は今尚惰力的に年々仕込を続けて居り、其の額は推定五、六十万円に上ると言はれて居るが往時の面影はない」と仕込取引の衰退の事情を述べている。
仕込制度は、漁業資金はもとより、生計費まで仕送り、1、2年不漁があって回収できなくても、また、翌年投資するという、一面からみると温情的にもみえる制度だったため、不況と不漁がかさなって、函館海産商だけ500万円ともいわれる多額の回収不能金がでたうえに、漁村を救済するために漁業組合の共販事業などの拡大が政策的にとられたため、函館の海産商は大打撃をうけることになった。
政府・農林省は昭和7年窮乏する農山漁村の自力更生運動を指導する方針を打ち出し、負債にあえぐ漁村を救済する最も有効な方法として漁業組合の共販の拡大化がはかられた。漁業組合は明治43年の漁業法の全面改正で共同施設をなすことができるようになっていたが、昭和8年の改正で、出資、および責任制のもとに漁業組合自体が経済行為をなす漁業協同組合に改組する途を開いた。しかし、漁業組合の共販事業拡大の隘路になっていたのは、永年の仕込による親方、子方という従属関係と、仕込を断ち切られた時の生活の不安から漁民が共販に消極的だったからである。北海道庁の農林主事として漁村更生運動の先頭にたった安藤孝俊は、その著『漁村の幸せを求めて』で、漁民の意識を変え、組合員として一致結し、仕込主と負債整理などの交渉にあたるよう指導するとともに、「昭和七、八年頃私はまだ北海道庁の役人であったが、この仕込みをたち切るために日水へ飛込んだ。日水は強大な日産コンツェルンの中にあったが、私は毒を飲んで薬にしようという決意で乗り込んだのだ」とあるように、新興財閥であった日産コンツェルン傘下の日本水産(株)の百数十万円に及ぶ資金が組合に流れ、漁業組合の共販事業を促進した。
昭和9年には、紋別漁業組合が中心になって、沙留、雄武の組合が貝柱の統制を目的に申し合わせの出荷組合を作り、日本水産と結んで好成績を収め、また、鹿部、臼尻、尾札部、砂原各漁業組合の収穫昆布2000石を日本水産が一手に引きうけた。日本一良質といわれる川汲昆布で、従来は函館の仕込商人を通じて、ほとんどが大阪に移出されていたので、函館の海産商にとって大問題であった。
昭和9年8月10日の「小樽新聞」は、「昆布の販売統制に函館仕込商恐慌、一部では回収始まる」と題し、道南茅部郡尾札部村外14か村一帯に産する元揃昆布は、全国における昆布の最優秀品で、年産約2500石、価額約300万円であることを紹介するとともに、渡島支庁当局が管内の漁村経済更生の立場から販売統制を計画していることを報じ、「同地方としては開村以来函館市場と密接なる仕込関係を有し、現在各委託問屋を通じて米噌、雑貨類の貸越等総額四、五十万円に達してゐる。然るに当局及び産地側代表の漁業組合は何等これ等の解決に触れておらぬため、多年物資を供給してきた委託問屋筋、即ち仕込主間に大衝動を来し、これが対策につき徳田、木村、柏原、小川、野村、川端、赤塚、上山の各問屋筋が極秘裏に会合協議した結果、暫時支庁の態度を静観するに決したが、一部強硬な仕込者にあっては、逸早く固定貸付金を強制的回収に着手した」と、委託問屋、仕込商、すなわち売屋、売人の動揺を伝えている。また、「仕込商の立場は充分に尊重する」という小林董渡島支庁長の談話を次のように伝えている。
支庁としては海産商筋の生産地に対する従来の恩恵を充分尊重して善処したいと思ふ。併しながら漁村救済の見地から仕込制度だけは是非打破する必要があると信じたので、本年度は水産協会の斡旋で取敢へず仕込み皆無の生産者から製品を取纏め売買契約を行ってゐる次第で、唯今は生産者へ統制の必要を認識せしめた程度に過ぎない。しかしながら、適当な時期に漁業組合の廃合を実行し、組合員に着業、米噌資金融通の途を講ぜしめる一方、仕込筋に対して迷惑とならぬやう負債整理を極力急がしめ、漁業組合の整備を待って本格的統制に乗出す心算である
と、仕込商の「従来の恩恵を充分に尊重する」としながらも、仕込打破にきわめて強硬で、北海道庁当局の決意がうかがえる。
渡島支庁長は、水産協会を窓口に買付問屋、すなわち買屋、買人の申合組合の団体である函館海藻移出組合とはかって、その一手取引の契約をなした。この年、茅部郡の白口元揃昆布は発育良好で、3500石に達したが、まず、尾札部、砂原、鹿部の3か村分について函館海藻組合と随意契約が結ばれたが、函館の委託問屋、仕込商側の反対、大阪の問屋商人の反対にあって挫折し、9月30日になって、函館海藻移出組合分を日本水産(株)が肩がわりして随意契約が成立し、続いて臼尻、川汲、等々で漁業組合が介在して成約をみた。しかも、今後2か年間は、各村ごとに値段を改めて協定することになった。元揃昆布を一手に引き請けた日本水産は、神戸の藤井商店を通じて大阪の小売商に売り捌き、大阪の問屋商人のボイコットを切り崩した。このような道庁の仕込制度打破の方針と、日本水産の昆布業界へ進出が結びつき、函館の海産商が多年にわたって培養してきた商権がゆらぐことになった。
さきにみた『本道に於ける海産物取引事情』は、昭和11年、12年ころの函館海産物市場にかかわる「大資本の進出状況と漁業組合改組に依る販売統制の概要」を次のように記している。
販売統制に進みつゝある地方は現在は日高地方一帯、及茅部、松前地方である。是等の地方の漁業組合は其の販売に当っては殆ど大北水産と結付き、同社より資金の融通を受けつゝある。之が為松前及桧山の鯣、、昆布、日高の昆布、、茅部及亀田地方の昆布等は今では函館商人の手を殆ど通らぬ状態である。
大北水産は是等の地方の外、北見の鮫、茅部のボタン蝦等をも一手引受の契約を為し、又近くは根室、釧路の鮭、鱒をも一手に取扱ふべく同方面の漁業組合と契約既に成立せりと伝へられる。
大北水産が現在函館商権内の生産地に融通しつゝある金額は約三、四十万円と称せられて居る。是等は総て著業資金として貸出されるもので嘗ての仕込の如く漁業者の生計資金は含まれない。従って回収完了せざれば翌年は投資せず回収のみに努めて居る。
日高地方に対する大北水産の貸付金利率は日歩一銭八厘又は年四分等と称せられる低金利であり、且買付の際は前二、三年の平均価格を最低買付価格として居る様である。
大北水産は、日本水産の子会社である。昭和9年日本食糧工業が、その所持の日産株をもって、鰊定置漁業者を糾合した小樽の合同漁業(株)を買収したが、これにともなって合同漁業の製品の一切を販売するために、日本水産の北海道での業務を継承して、昭和10年3月に、資本金100万円で設立されたのが、大北水産である。鰊締粕は、「以前ハ仕込経営ノ委託販売ナリシガ、昭和六年鰊合同会社ノ設立ニヨリ一部ハ会社ノ経営ニ移リ、合同ニ加入セザル漁業者ハ漁業組合資金ヲ利用シ著業スルモノ漸次増加シ、仕込制度ハ漸減セリ。現在、本道及樺太ニ於ケル鰊搾粕総生産額中約四割ハ会社ノ生産ニ係ハリ、残リ六割ハ一般漁業者ノ生産トシ、漁業会社ハ同系ノ販売機関ヲ経市場ニ出荷ス。又一般漁業者ハ漁業組合ニ販売ヲ委託スルモノ漸次増加シ、問屋ハ漸次影ヲ潜ムルニ至ル」(北海道拓殖銀行調査部『北海道樺太商品要覧』、昭和13年3月発行)とされるが、この同系の水産販売会社が大北水産(株)である。日本水産の北海道での業務を引き継ぎ、鰊製品以外にも手をひろげ、漁業組合と結んで函館の海産商を圧迫した。大北水産は、日産系水産会社を合併した巨大水産会社、新たなる日本水産(株)(第3次日本水産)が生まれると、昭和12年3月に、これに吸収合併された。
函館の海産商も、申し合わせの統制組合などを結成し、消費地側のアウトサイダー的業者などと結んで抵抗したが、やがて戦時経済が深化してくると、配給機構の中に吸収され、商業は失われてしまった。
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