通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 3代目市長の就任と突然の辞職 |
3代目市長の就任と突然の辞職 P239−P242 3代目市長の選考は、非公正会派主導で始まりまず地元説が浮上したがまとまらず、石井隆銓衡委員会委員長は、綿引綱、島村鋭郎、池田啓蔵を調査小委員として台湾の前高雄州知事の木村英俊を推挙、昭和4年1月15日の第7回目の委員会で非公正派単独で市長候補を決定した。17日に市長選挙市会が開かれ、33人が出席したが、結局公正会派12人は退場してしまった。残った議員21人で投票が行なわれ20票(無効票1票)を得た木村英俊が市長に選ばれた。同時に市長の俸給も審議され、木村市長の俸給年俸を8000円、特別交際費は2000円に決定された。木村市長は2月2日に着任した。明治5年の会津若松生まれで、56才、東大法科を出て神戸区裁判所を振り出しに法曹界を歩いた後、民間会社の勤務も経験、宮内事務官として官吏に復帰、前職が高雄州知事であった。 着任時その風格から期待されて迎えられた木村市長であったが、7月に入って函館高等水産学校設置問題で、寄付金の手続きをめぐって専断と指摘された。函館高等水産学校設置には、寄付金を出すことが条件となっていたが、この寄付金出願を市会に諮らずに出願し、議決機関無視の非難を受けて市会を紛糾させたのである。 その後、引きこもり中であった木村市長は、30日に辞表を提出してしまった。辞表には「萎縮腎」で激務に耐えられ ずとの診断書が付されていた。8月7日の市会で市長の辞任が承認され、木村市長の在職期間は6か月弱、最も短命の市長となった。 このため、次の市長を得るまでには時間がかかることになり、坂本森一が4代目市長に選出されたのは12月27日であった。坂本市長は電気事業市営化問題で奮闘したこともあって2期8年市長の職にあったが、訴訟にまで進んでしまったこの問題を和解に導いたのは次の斎藤與一郎市長であった。 初代小浜松次郎市長以降の市長、助役、収入役は表2−7の通りである。
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