通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 小浜市長の辞任 |
小浜市長の辞職 P234−P235 小浜市長は手腕を発揮する場がないまま1年を経過しようとしていたが、大正13年7月20日、突如市会議員18人は「吾々は函館市政の現状に鑑み当市の為め市長小浜松次郎君は速やかに勇退せられんことを希望するものなり」との申合せを行ない、代表3人(岡田健蔵、泉泰三、藤村篤治)が市長公宅を訪れ、辞職勧告書を提示した(7月24日付「函新」)。小浜市長の個人的な問題を捉えて辞職を迫ったようである(同上)。このため、24日の市会で小浜市長は、「多数議員の御希望に背反して市会を紛糾せしむるは本意にあらざるを以て 潔く辞職する事に決した」と辞意を表明し、在職中痛切に感じたことを申し上げると前置きして、港湾、塵芥屎尿処分問題に関する所信(函館は港湾を生命とする以上、之れが施設に向かって邁進する要あることは勿論、余も亦之れが調査に没頭し専門技術家をも採用して既に第一第二第三の成案を得近く諸君の協賛を経て実現の端緒に著かん決心を有し居りし次第である、更らに塵芥、屎尿処分も然り、大函館として之れが解決は焦眉の急であり、之亦調査材料を蒐集し同様諸君の協賛を熱望していた次第である)を述べている。伊藤助役も「市長の推薦を受けたる助役は当然進退を共にすべきもの」と、辞意を表明した。 市長銓衡委員会が開催されていた当時から小浜松次郎の人格に問題ありとの主張を繰り返していた「函館新聞」は、6月の初めから「市長は何を為しつつありや」「衆智は市会にあり責任は市長にあり」「市長は無きに若かず、今日の如くんば」「不信任と無責任」などと反市長キャンペーンを行なっていたが、小浜市長の辞任決定直後、「小浜市長の辞職」と題して、「市会として当初の選挙を悔ゆべく、寧ろ『問題の人』を銓衡せず、選挙せざりしが賢明なりしと」の表明を行なっている。 さらに、小浜市長就任時に「新市長に望む」(大正12年7月22日付)と題して、「市長小浜君は市吏員に対して最初の訓示に於て公平と親切とを二大標語と為すべき旨を告げたと云うことであるが、吾人は其の言の平凡通俗を喜ぶものである。」との社説を掲げていた「函館日日新聞も、7月25日の社説では「党争を去れ」と題して「小浜市長の手腕及び人物は就任早々から五〇点以下と認められ北門流の議員中、既に嘆声を洩らせるもの尠からざりしは事実にて、唯中立派が対公正、北門の立場上、小浜市長擁護を声明した」に過ぎないと述べており、小浜市長は市会両派から見放されたわけである。 伊藤助役は一蓮托生と評されていたが、北海道庁の事務管掌を受け入れたくないとする市会の意向を受けて、道庁へ助役留任の請願書が提出された。結局、伊藤助役は次の市長が決まるまで留任した。 小浜市長は、内務大臣からの次の市長候補者を推薦すべき指令が届いた8月13日、函館の地を離れた。 |
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