通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第2章 20万都市への飛躍とその現実 初代市長候補者の選挙 |
初代市長候補者の選挙 P229−P233 西岡区長は大正10年の大火後の復興での迅速な対応が評価される中で、市制施行準備に意欲的に取り組んでいたが、初の市会議員選挙で彼を推していた北門倶楽部が市会での優位を獲得できず、初の市会の2日目(11月8日)に、「四囲の事情及び健康上よりしばらく閑地に於て静養の必要を認めますので、先般来監督官庁に対して現職を辞すべく辞表を提出」と挨拶して辞職した。彼は函館を離れるに当たって、「唯々理事者窘窮せしめんと欲して論難攻撃を事とし、何等自治に関係なき私人の私行を摘発し、甚だしきに至っては、讒誣中傷を逞ふし、罵詈毀謗を加へて以て自ら快とせり、是れ天に向かって唾すると等しく、議員が自ら其品性を傷つくるものに非ずして何ぞ、一青年をして『区会は大人の喧嘩口論する処なりや』の奇問を発せしむる亦、故なきにあらざるなり……新市会議員何れも民望を負ひ、民意を代表して議席に列す、正に百事更新の秋なり、宜しく先づ地方議会の品位の為に、互に相戒めて言論の質を向上すると共に、市の為、市民の為一切の感情を去り、総ての行き懸りを捨て、協力一致、最善を竭して大函館の建設に努力せられんことを望んで已まざるなり」(「新市会に対する余の希望」大正11年11月8日付「函日」)との思いを残し、14日の連絡船で函館を去った(退職認可は12月12日)。 その4日後の18日、内務省から市長を推薦すべき旨の指令が函館市に届いた(大正11年11月10日付け内務省発地第59号)。24日の市会で「市長詮衡委員」を挙げて市長の選考を進めることが決定され、12月1日に第1回の市長詮衡委員会が開催された。委員は9名で、委員長は選挙戦に勝利し初代市会議長に選ばれた公正会の恩賀徳之助で、委員は松下熊槌(北門)、黒住成章(北門)、中村諭二郎(北門)、山崎松次郎(中立)、伊予田徳次郎(中立)、平出喜三郎(公正)、前田卯之助(公正)、浜崎治助(公正)であった。全員が出席した第1回は、市会議員各位に適当な人物の推薦を依頼する事だけを決め30分ほどで散会したという。その後委員会が非公開であったこともあってしばらく具体的な動きも表面化せず、年を越してしまった。ところが大正12年3月1日の第4回銓衡委員会以降になると、それとなく情報が流れるようになり、「函館日日新聞」によると、この時恩賀、平出の両委員が推していたのは、前樺太庁長官昌谷彰であったが、彼が函館市の要請を受けないのではとの観測もあり、公正会内部でも必ずしも一致した動きになっていなかったとのことである。 その後銓衡委員会を重ねる中で、公正会派の浜崎治助委員から元青森県知事で、前小倉市長小浜松次郎を推す動きが出て、大正12年4月15日の市会議員協議会で市長候補者として小浜松次郎を推薦することが満場一致で決定され、市長詮衡委員の恩賀、平出と渡辺泰邦議員、藤村篤治議員の4名が交渉委員に選ばれて上京した。しかし昌谷彰を推していたといわれる恩賀、平出の両委員は、交渉開始を渋り辞意を表明しため、渡辺、藤村の両交渉委員が28日に小浜松次郎に面会、市長就任の快諾を得たという。 5月1日、帰函した藤村委員を迎えて議員協議会が開かれ、藤村委員の報告が了承され、次いで8日に市長詮衡委員会が開かれ、第2候補者として岡本忠蔵、第3候補者として渡辺熊四郎が全会一致で決定された。 14日、市会が開かれ市長候補者の選挙が行なわれた。恩賀委員と平出委員は銓衡委員を辞任(恩賀市議は議長も辞任)し本会議も欠席したので、副議長小熊新三郎が議長席に着き市会を進行させた(6月4日の区会で松下熊槌が次の議長に選出された)。市長候補者選挙結果は表2−3の通りで、第1候補者小浜松次郎、第2候補者岡本忠蔵、第3候補者渡辺熊四郎の3名を連記した推薦上申書が内務大臣に提出された。
7月3日、初代函館市長として小浜松次郎が裁可された。その後、17日の市会で初代市長の年俸が1万円と決定された。市長銓衡委員会が設置されると同時に、市は主な都市に市長助役等の給料額を照会(表2−5)していた。この資料が参考にされて函館市長の給料額は決定されたのである。
小浜市長の初仕事は助役、収入役を推薦することであった。8月4日の市会に助役臨時代理者伊藤貞次、収入役臨時代理者松尾雅枝を推薦した。しかし、助役収入役とも満場一致とはならなかった(8日には北海道庁長官の認可が下りた)。ある市会議員から市長が助役、収入役を推薦する際、事前に議員協議会に諮ることを求められていたためである。もっともこの提案は、小数意見として成立をみなかったのであるが。 その後助役、収入役の俸給が市参事会に諮られ、各々4500円 2600円と決定され、21日の市会でそのまま議決された。「函館日日新聞」によると、市長の提案は各々6000円と3000円であったという(8月22日付)。この件も市長の意向がそのまま通らなかったわけである。市会の多数派が一致協力するとは云えない体制での初代市長の船出であった。最後の区長西岡実太の危惧が的中したわけで、「協力一致、最善を竭して大函館の建設」には程遠い出発であったのである。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第3巻第5編目次 | 前へ | 次へ |