通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実
第1節 市制の開始
2 市政の展開

第1回市会

初代市長候補者の選挙

小浜市長の辞任

2代目市長佐藤孝三郎

「市是」の制定と市民懇話会の開催

3代目市長の就任と突然の辞職

2代目市長佐藤孝三郎   P235−P237

 小浜市長が去って10日後の8月23日、第1回の市長銓衡委員会が開かれ、平出喜三郎が委員長となって選考が進められた。当面の問題である港湾、海陸連絡施設、都市計画などを勘案して、輸入候補を考えることなり、第3回の委員会で3人の委員(藤村篤治、登坂良作、恩賀徳之助)が選ばれ上京した。内務省警保局長川崎卓吉の仲介があって佐藤孝三郎が候補者として浮かんだという。名古屋福岡などでの調査を実施後、10月27日の第5回委員会で佐藤孝三郎を満場一致で推すことを決めた。佐藤孝三郎は福岡県生まれの57歳、元福井県知事で、前職は名古屋市長であった。名古屋市長時代の港湾施設、都市計画、電車市営問題処理などでの手腕が期待されたのである。
 11月1日、29人の市会議員が出席して市長候補者選挙市会が開かれた。午後2時開会の予定は議員協議会が市長の俸給問題で紛糾し午後5時半開会となり、無記名投票で第1第2第3候補者が選ばれた。佐藤孝三郎は満票であった。
 選挙市会前の議員協議会で決められなかった市長の俸給は、3日に開かれた議員協議会で決定した。前市長と同じ年俸1万円と特別交際費2000円を付して決(27日の市会で可決)したのである。市長就任の裁可は24日付けで下り、佐藤市長は12月5日着任した。

佐藤孝三郎市長(『高岳自叙伝』)
 着任に際して佐藤市長は、「当市に参った自分は最善の力を尽す考えであるが皆さんもお力添えを願いたい、水電会社の話は只今助役から聞いたばかりであるが、之から能く研究したと思う」と述べたが、函館水電と市との係争問題(本章2節参照)が双肩にかかることとなったのである。
 佐藤市長に仕事の引継ぎを終えた伊藤貞次助役は退職した。12月27日の助役選挙市会に、佐藤市長は後藤秀治元名古屋市次席助役を推薦し、満場一致で選ばれ、年俸も7000円と決定した。また、空席であった総務課長には、佐藤市長が福井県知事時代に福井県理事官であった弥吉茂樹を据え、体制を整えたのである。
 その後、後藤助役は1年余を経て、函館水電(株)の買収交渉が本格化する前に退職、買収交渉期間中は助役不在の状態にあった。佐藤市長は、電気事業を買収し市営化するには至らなかったが、市政全般にわたっての配慮と市政理念の集約整理(昭和3年11月に「市是」を制定)に手腕を発揮し、市民館(開館式昭和2年3月26日、工費15万3,318円のち昭和9年の大火で市役所が焼失した後一時市役所として活用)の完成などの業績を残し4年間の任期を全うして退職となった。非公正派の阿部覚治議員も「氏は識見手腕に於て其批評区々なるも、円満なる人格が市民に最も好印象を与へて居った様に思われます」と評している。
 さらに再選を求める声も新聞紙上に報じられている。だが市会には、佐藤市長を推していた公正会派と非公正会派(大正14年北門倶楽部が解散し、公友会、大興倶楽部等に別れたが、政友会系として公正会に対抗したために非公正会派と呼ばれる…昭和4年1月に非公正会派と称されることを嫌って昭和倶楽部を名乗り、会長石井隆、副会長鷹田元次郎で、顧問には松下熊槌、平塚常次郎がなり、昭和8年12月の市長戦で統一を欠き解散)の対峠という構図があり、また、地元から新市長を出したいとの思いもあって、再選とはならなかったのである。
 また、佐藤孝三郎市長は退函に際して「市民諸君に呈す」を発表、「資本は活用して始めて価値があり、これを積極的に利用して始めて其増大を見、又産業の勃興をも見るのである、当市に於て動もすれば死蔵しこれより生じる利潤によつて安逸なる生活をなさんとの風習を見るには、決して当市将来の大を為す所以ではない、仏国の盛ならざるは貧なるが故に非ずして資本を死蔵するにより、英吉利の国運の隆盛なるは、資本を死蔵せずして、これを積極的に事業に投じ、国内に安逸を貪らずして、広く海外に活躍するに依るのである。当市の資本家の注意を促したい」と結んでいる(昭和3年12月2日付「函日」)。
 なお、大正15年の市制改正で市長選出方法が改正(大正15年6月24日法律第74号)され、内務大臣に市長候補者を推薦上申することが不要となり、単に市会の選挙で決定することとなったため、市長候補者選挙はこれが最後となった。
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