通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第1章 露両漁業基地の幕開け 立憲政友会支部の結成と分裂 |
立憲政友会支部の結成と分裂 P38-P40 明治14年の開拓使官有物払下げ事件当時、函館で反対運動の中心人物であった山本忠礼らが自由党に入党し、その後同16年には北海自由党の創立という動きもあったが、山本忠礼とその他創立委員間に意見の相違があって山本忠礼が函館を去り、以後函館での政党的な活動は消滅していた。明治33年3月に衆議院議員選挙法が改正され北海道からも衆議院議員を帝国議会に送り出すことが出来ることとなり(最初は函館区、札幌区、小樽区各1人のみ)、さらに34年3月には北海道会法が公布・施行され、道会議員を函館から選出することになり、地域と政党政治の関連が強まっていく。こうしたことと相まって明治33年9月創立された立憲政友会が、地方支部設立を進める中、函館にも支部が誕生する。同年1月14日、富岡町の町会所において立憲政友会の函館支部発会式が行なわれた。中央からは片岡健吉が来函し、発会式は平出喜三郎を仮議長に進められ、稲垣勝三ら3人が、支部設立趣旨などの説明者となり、役員の選出を行なった。正副幹事長は東京本部の片岡健吉の指名による決定となり、幹事長は平出喜三郎、副幹事長に高橋文之助が指名され承認された。代議員は若松忠次郎、同補欠員は小橋栄太郎、内山吉太という顔ぶれとなった。ただし当時の新聞によると、200人余が出席を承諾していたが、来会者は130人ほどであったという(1月18日付「北海道毎日新聞」)。しかし、政友会函館支部の存在は、北海道会法による初の道会議員選挙に反映された。34年8月10日初の道会議員選挙は、平出喜三郎が228票、稲垣勝三が130票を獲得して函館区選出議員は政友会が独占した。さらに平出は初代道会議長に選出された。明治32年の区会議員選挙に完敗した同志倶楽部は、この選挙でも振るわず平田文右衛門が28票、馬場民則が4票を得票したに過ぎなかった。ところが、明治34年末から35年にかけて区会で函館病院敷地論争が区役所敷地問題にすり替わり、区民大会が区会の決定を修正し、理事者や区会議員が市民の信頼を損なうことがあった。この時の市民大会を主導したのは馬場であった。 その直後、函館区から衆議院議員を帝国議会へ送り出す選挙が行なわれた。前年の道会議員選挙からちょうど1年後の明治35年8月10日であった。しかしこの時、衆議院議員を送り出す母体となった政友会函館支部は、平出喜三郎派と常野正義派に分裂して相争うこととなった。常野が政友会函館支部平出幹事長に衆院選出馬を辞退させようとしたのである。平出に若手への交代を迫ったというのである。この申し出を平出が拒否したため、常野は商業倶楽部を興し、政治的には全く無名の内山吉太を推した。選挙はこの2人と同志倶楽部の馬場民則が争い、平出喜三郎が365票、馬場民則が199票、内山吉太が170票で、函館区初の衆議院議員は平出喜三郎となった。この選挙結果を受けて常野は、次への布石に入った。 衆議院議員となった平出喜三郎が道会議員を辞職すると(同時に稲垣勝三も辞職)、道会議員の補欠選挙が告示された。政友会函館支部が高橋文之助を候補に、商業倶楽部は同志倶楽部推薦の佐野定七を推して選挙戦となった。9月15日の投票結果は、佐野定七、666票、高橋文之助196票、馬場民則2票、稲垣勝三、1票で、上位2人当選のため政友会の高橋文之助も当選したが、常野ら商業倶楽部が推す佐野定七とは圧倒的な得票差となった。 続いて11月30日から12月2日にかけて自治制施行後誕生した区会議員を組み替える初の区会議員半数改選が行なわれた。商業倶楽部と同志倶楽部は連合して公友会と選挙戦を戦った。選挙結果は連合派の全勝であった(前掲表1−6→林悦郎区長の辞任と政争の影)。なお各級の有権者は、1級が40人、2級が184人、3級が1,226人で、区政実施直後の選挙の約3倍になっていたという(10月10日付「函館公論」)。ちなみに公友会というのは、政友会函館支部の別働体とみなされ、国政レベルでは政友会函館支部、区政レベルでは公友会が対応するといわれた。 さらに翌36年3月1日の衆議院議員選挙は、内山吉太と平出喜三郎の熾烈な戦いとなった。結果は内山吉太が373票で、平出喜三郎が325票、今度は48票差で商業倶楽部側が巻き返しに成功したのである。平出喜三郎(明治40年死亡)、常野正義(明治37年死亡)、馬場民則(明治41年死亡)がそれぞれの派を代表する選挙は、この衆議院議員選挙が最後となった。しかし、政友会函館支部、公友会、同志倶楽部の3派鼎立的な基本構造は以後しばらく続くことになる。この選挙後、初代林悦郎区長退職については、政友会函館支部、公友会、同志倶楽部の3派が区会で提携したといわれるなど、3派提携は、しばしば行なわれたようである。 |
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