通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第1章 露両漁業基地の幕開け 明治末から大正初年の区会議員選挙の動向 |
明治末から大正初年の区会議員選挙の動向 P40−P43 明治38年以降の区会議員の半数改選の結果は、表1−11の通りである。
明治41年の区会議員選挙は、すべて妥協派が制したと報じられている(12月6日付「北タイ」)。今回も有志による選考を経ての選挙であったと思われるが、その本質が垣間見え、妥協派と表現されたのではないだろうか。3級および2級選挙の得票数がかなり減っており、有志会議などにより事前に選挙結果が見える挙区一致が影響したのかもしれない。12月9日開かれた初区会には26人が出席し、「近来稀なる盛況」と報じられ、かつ常設委員など区会人事の選挙で「小暗闘」があって、開会時間の2時間遅れなどが記されている(12月11日付「北タイ」)。「小暗闘」などの内容は不詳であるが、この選挙で選ばれた区会議員の在職中に行なわれた商業会議所議員選挙では、これまでの派閥が厳然として存在し、かつ均衡人事が行なわれていた。明治43年10月の選挙で、政友会支部、公友会、有志派にそれぞれ6人が配分される協議がまとまったと報じられている(10月10日付「函日」)。 このような選挙前の候補者選考などが選挙結果を左右する事情はその後ますます強まる傾向にあった。明治44年の区会議員選での有志派候補者の選考過程を新聞報道で整理すると次のようになる。まず11月22日に公会堂で候補者予選の有志大会が開かれ、高橋文之助を座長に選んで銓衡委員15人を選出、翌23日銓衡委員会を開いて16人の候補者を決定した。推薦広告は、広谷源治、高橋文之助の2人が主唱者となり、47人の推薦者と函館日毎日新聞社、函館日日新聞社、北海新報社の名で出された。なお、この有志大会における小橋栄太郎の発言は政治風土に一石を投じる内容が含まれているので、その概要を紹介しておく。 小橋は候補者の選考と内定過程における「有志大会」の形式性を問題にし、本来議員選挙は「或る主義或る競争の下に公行」にされるべきであると主張し、「公民大会」の開催を求めた。さらに、一部の人による「非立憲的」な「妥協等を私して区民を庄迫」するのは「自由競争よりも却って弊あるあり」と説いて大会の主催者に「間然なき公明の態度」を取ることを要請したのであった。選挙結果は表1−12の通りである。 大正3年の区会議員選挙もやはり有志推薦候補者の選挙となった。ただし松田令司らが区政刷新を掲げて運動したため若干の波乱があったことが報じられている(12月3日付「函新」)。新区会は12月9日に開かれ、議長代理者、常設委員などの区会人事選挙は、前日の議員有志打合会の通りに決定された。
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