通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
|
第1章 露両漁業基地の幕開け 大正6年の区会議員選挙に至る政治事情 |
大正6年の区会議員選挙に至る政治事情 P43−P44 大正6年の選挙も結果的には有志者による選考を経たため、投票会場が寂しいと報道されたが、ここに至るまでには波乱含みの動きがあった。函館の政治的風土は、明治34年に政友会函館支部が創設されて以来、政友会がいつも基盤として機能してきた。つまり初の衆議院議員選挙で初代平出喜三郎に対抗して商業倶楽部から内山吉太が名乗りを上げ、再挑戦で勝利したが衆議院での所属は政友会であった。大正元年には2代平出喜三郎が衆議院議員選挙に立ったが、彼もやはり政友会からの出馬であった。なおこの時の総選挙には犬養毅の国民党から宮島鎗八が出馬しているが、平出に大差で敗れている。ところが翌2年憲政擁護運動の中、平出は、尾崎行雄らとともに政友会を脱党し憲政護憲を続け、5年10月憲政会(総裁加藤高明、総務尾崎行雄)が結成されると、これに参加した。翌年総選挙となり、平出は函館区から憲政会候補として立った。対立候補は佐々木平次郎である。佐々木は中立を標傍し政友会函館支部を取り込んで戦った。佐々木が699票、平出が665票、わずか34票差で佐々木が当選した。総選挙後佐々木を応援した人々で結成されたのが北門倶楽部で、対抗して生まれたのが平出を会長とする公正会(発会式6年10月23日)であった。対抗関係にあった北門倶楽部と公正会であったが、大正6年の区会議員選挙を迎えるに当って両者の調整を図る者が出て、交渉委員を挙げて連合候補を推薦することになった。11月29日付けの「函館新聞」は「妥協成りて無競争にて区会議員が出でたりとて区政が改善されるべしとも思われず」と批判した。3級選挙は投票率23.4パーセントと無風選挙同様だったが、選挙後の区会では、常設委員選挙が事前交渉で協定が成立せず、審議は停滞し、選挙を終えたのは夜8時過ぎであった。 |
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第3巻第5編目次 | 前へ | 次へ |