通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第6節 社会問題と労働運動の展開
2 労働運動の変容

春闘の攻防と労働争議

函館ドックにおける労働争議

不況と失業者

「逆コース」と「六〇年安保改定」反対運動

軍事基地化反対運動

原水爆禁止運動と非核都市

労働戦線の対立

オイルショックと物価値上げ反対運動

生活協同組合の消費者運動

春闘の攻防と労働争議   P533−P534

 戦後の労働運動で特筆されるのが昭和31(1956)年春から始まった「春闘」である。まず、その頃の社会背景を簡単にふれておこう。昭和30年から40年代後半のオイルショックの時期までいわゆる未曾有の「高度経済成長」を国民は経験することになった。昭和35年12月、日米安全保障条約改定(新安保条約)後、岸首相に代わって登場した池田首相は国民所得倍増計画を発表し、その後、多くの国民はテレビに象徴される家電製品、自動車、マイホームなどを求めるようになり、その後の国民「総中流化」の引き金となった。しかし、後に述べるように国民の生活の向上は平坦な歩みのなかにあったわけではなかった。この時期は低賃金打破と労働条件改善のための労働運動、物価値上げ反対や公害反対のような社会運動など、多様な運動が展開された。さらに高度経済成長期は日本がアメリカの世界・アジア戦略に巻き込まれていく過程でもあった。そのため外交・治安・警察・教育など、国民生活の多様な面で戦後改革の逆流をめぐって平和と民主主義・生活擁護を求める労働・社会運動が続けられた。
 春闘は総評(日本労働組合評議会)議長の太田薫が提起し、官民290万人の統一闘争をおこなったのが最初といわれ、この年以後、賃上げや労働時間の短縮など労働条件の引き上げと改善を要求して労働組合がいっせいに闘う労働者の統一闘争として定着していった。総評は昭和25年、GHQの支持のもとに発足した労働組合の全国組織であったが、労働者・国民の再軍備反対、中立堅持、軍事基地提供反対、全面講和実現などの強い声に押され、「ニワトリがアヒルになった」と称されたように、次第に反「米」的な姿勢を強めるようになった(塩田庄兵衛『日本労働運動の歴史』)。
 春闘がこれ以後、毎年、持続してきたのはこの時期、低賃金と長時間労働に追いやられてきた労働者の要求が強いことの現れでもあった。昭和30年代の函館の労働運動の特徴について山内栄治は以下のように分析している。それは「函館地方は、本州と道内経済の接触で常に産業上の安定を欠き、北洋漁業に非常に影響される本道随一の失業多発地域であり、物価も安いが民間賃金が非常に低く、その労使関係は不安定で抗争は激しい姿で現れる。」というものである(『新北海道史』第6巻通説5)。なかでも、函館船渠株式会社をめぐる労働者と使用者(以下、労使)の対立は戦前の昭和3年争議が有名であるが(『函館市史』通説編第3巻参照)、第2次世界大戦後もしばしば対立が続いた。この問題について『函館ドック労働運動史』(函館ドック分会刊)を用いて以下に概略を述べておく。
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