通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第6節 社会問題と労働運動の展開
2 労働運動の変容

春闘の攻防と労働争議

函館ドックにおける労働争議

不況と失業者

「逆コース」と「六〇年安保改定」反対運動

軍事基地化反対運動

原水爆禁止運動と非核都市

労働戦線の対立

オイルショックと物価値上げ反対運動

生活協同組合の消費者運動

労働戦線の対立   P539−P540

 安保改定反対闘争が大きな国民運動として展開されて間もなくの昭和35年10月頃から函館の労働界では、組合運動の路線と民間中小争議(秦東製網、堀川紙器、道南漁業資材、北海小型タクシー、相原鋳物、北海銑鉄各労組)の指導方針をめぐる対立が表面化するようになった(『函館地評運動史』)。

函館地区労働組合協議会結成大会(「道新旧蔵写真」)
 函館における戦後の労働運動の特徴のひとつは函館地区をベースとして労働戦線の統一がおこなわれてきたことであった。しかし、同年10月16日に開催された函館地方労働組合会議(函労会議)第10回定期大会において、「函労会議の″分裂″」問題が生じた。「函労会議の指導方針が共産系の色彩が濃い」ことに不満を抱く9単産(産業別単一組織)が退場したのである。この時点で加盟単産数は68単産、1万4000人が加盟していたが、分裂は避けられなくなった。北教組、国鉄労組、全道労協(全北海道労働組合協議会)が対立する2者の斡旋に入ったが、調整はつかず、同36年4月16日、「函館船渠、全電通、全逓、全専売、市交通、北電、製材、市学校職、市清掃」の9単産によって、新たに函館地区労働組合協議会が生まれた。議長には鈴木広経(全専売、元函労組合議長)のが選出された(昭和36年4月3日・16日・17日付け「道新」)。これ以後も両組織の統一のための話し合いはおこなわれたが、合意には達せず、41年12月21日、函館地区労働組合協議会は函館地区労働組合評議会(地評)に名称を変更した。この段階で、函労会議の組織は43単産・4700名、地評は40単産・1万2520名、ほかに道南同盟が11単産・7558名となった(『函館地評運動史』)。
 この後、地評と函労会議との間では課題別の共闘がとられ、その後も組織統一の話し合いが昭和44年末までおこなわれたが、組織的戦線統一は実現しなかった。
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