通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第6節 社会問題と労働運動の展開
1 高度経済成長と社会問題

昭和30年代の函館の社会相

経済成長と公害

国鉄の解体・日魯漁業、函館ドックの縮小と整理

国鉄の解体・日魯漁業、函館ドックの縮小と整理   P529−P532

 かつて函館を支えた象徴的な企業といえば、日魯漁業や函館ドック、それに青函連絡船を抱える国鉄青函局があった。日本の経済構造の変化によって、これら企業やその関連中小企業の多くは、業績の悪化や存続の危機に陥った。生き延びるために様々な転換をはかりながらも、縮小・整理、あるいは解体というように厳しい現実から逃げ出すことはできなかった。
 その結果は、ここに働く人たちの家庭生活を直撃し、ひいては地域全体に負の遺産としておおいかぶさるようになったのである。
 国鉄の場合は、第2章第4節にみられるとおり、利用者の減少が命取りとなった。旅客の航空機利用、貨物の大型トラックとフェリー利用という傾向は、昭和40年代以降、急速に進んだのである。
 昭和57年1月、学識経験者、労組役員、主婦などで「青函連絡船存続市民協議会」(略称連絡船を守る会)が発足し、シンポジウム、連絡船フェスティバルなどを開催して連絡船の存続運動を広げていった。シンポジウムでは、函館経済への影響の大きさが報告され、廃止によって函館市民の経済所得5000億円の20パーセントほど1000億円は減ってしまう、人口も同じ比率で減れば25万人余くらいまで減少するだろう、との予測が語られた。函館市の計算では520億円ほどの影響ではないか、ともされていた(昭和58年1月11日付け「毎日」、和泉雄三「自分史・矢野市政と私の市民運動」『地域史研究はこだて』31号)。
 存続運動にもかかわらず、連絡船の営業成績は低下の一途で営業係数は昭和55年の227から58年の292(100円の収入を得るのに経費が292円)にまで下がってきていた。この58年度の赤字は238億円だったという。連絡船の函館経済への影響510億円(市の計算)のうちの半分近くは「国鉄が赤字としてかぶっている計算」ということで連絡船存続に有効な運動は難しかったのである(昭和60年5月10日付け「道新」)。
 「連絡船を守る会」とは別に、市が商工業者や労働界代表まで含めて組織した連絡船存続推進協議会(昭和58年結成)も、東京や札幌への陳情活動を100回以上も繰り返していた。60年7月には、この推進協議会が国鉄再建監理委員会の答申が出る直前に「最後の陳情」を「過去最強の陳情団」でおこなおうとしている時、函館商工会議所は「今さら……」という態度、北海道も参加しない態度だったという(昭和60年7月18日付け「道新」)。
 昭和62年4月、国鉄の分割・民営化は実行され、63年3月、青函トンネルを通ってJR津軽海峡線が開業すると同時に青函連絡船は廃止されたのであった(第7編コラム55参照)。分割・民営化によって、解雇されたものの再雇用されなかった国鉄労働組合員の処遇については、課題が残されたままであった。
 日魯漁業は、昭和27年の北洋漁業再開以来、函館を基地に母船を出漁させたことは、第2章第3節に述べられているとおりである。函館支社の規模は、昭和40年には従業員420名であったものが(1965年版『函館商工名鑑』)、およそ10年後には140名と3分の1に縮小された(1967年版『函館商工名鑑』)。その後北洋漁業は終焉を迎え、函館支社は本社函館事務所に降格し、従業員数は昭和60年には10名となった(1985年版『函館商工名鑑』)。
 函館ドックの盛衰については第2章第3節5、および第7編コラム21に詳しいが、『函館商工名鑑』から函館ドック函館造船所の従業員数の推移を追ってみると、昭和40年には1887名、51年は2690名だったものが、60年には1212名と10年前の半数以下に落ち込んだ。もちろん函館ドックのみならず、オイルショック後は日本の造船業界全体が不況にあえいでいた。
 函館公共職業安定所が昭和52年7月から翌年3月末までにまとめた造船離職者は1101名で、そのうち会社の都合によるものは798名(内訳は函館ドック函館造船所が383名、同社構内下請が238名、構外下請が177名)であった(昭和53年4月16日付け「道新」)。この53年には1月に504名が退職、12月には698名が職場を去ったが、それでもまだあと400名を削減したいとの会社の方針に、労働組合が反発したまま暮れを迎えた(12月30日付け「北タイ」)。「赤字は業界最高、経常で一二五億円」という状況であったから(昭和53年6月6日付け「道新」)、労働組合も会社の強行馘首に備え希望退職者を募るなど背水の陣を敷いてはいたが、事態ははるかに深刻であったのである。
 50年代には、造船不況に苦しむ函館の様子が、頻繁に新聞記事になった。函館ドックは、昭和59年には会社の存続をかけてさらに750名(管理職は別に40名)の退職者を募集した。そのころの社員と家族、下請企業、離職者の暮らしぶりを「函館ドック哀歌」という見出しで「北海道新聞」が特集を組んで紹介した(昭和59年7月25日から8月3日付け)。ここにいくつかを抜粋しておこう。

函館ドックの人員整理を伝える記事
 「夫の給料は生活保護以下」という函館ドック労働者の妻たちは、松風町のパチンコ店が閉店したあと、掃除の仕事をしていた。ドック労働者の妻の9割はパートタイムの仕事についているという(7月25日付け)。下請会社の親方は「仕事がないので労働者は午前中に帰ってもらった」と語り、30人も従業員がいた時もあったのに、今は8人で孫請会社も抱えきれなくなった窮状を述べている(7月27日付け)。労働組合のひとつ、「全造船ドック機械分会家族会」の声も取材されている。「五十歳を過ぎて、他にどこに働きに行けと言うのでしょう」「六年間、賃金をおさえられ、蓄えなんかない。会社は『あんたたち死ね』と言ってるのと同じことですもの」「子どもたちに、『もし父さんがクビになったら、みんな親類の家に分散して父さんと母さんは働きに出なくては』と言ったら……ワァーッと泣き出して……」(7月31日付け)。
 函館ドック周辺の商店もすっかり活気をなくしていた。歳末大売り出しを中止した商店街もあった。離職者たちのその後は出稼ぎ、Uターン、下請、職を転々とする者……と書かれているが(7月30日付け)、詳しいことは知りようがない。昭和52年から54年の合理化で下請従業員も合わせると2231名の離職者を扱った函館職業安定所は、函館地方経済が冷え切っている現在、790名もの大量受け皿探しは、前回と比べものにならないほど厳しいという見通しをしていた(昭和59年9月5日付け「読売」)。 
 会社はついに自力で赤字経営から抜け出すことはできず、昭和60年に来島どつくの傘下に吸収され、社名も「函館どつく」と改称された。「去るも地獄、残るも地獄」という状況のなか、「ドックの身売り」は社員のみならず、函館市民にとって痛恨の出来事であったといえるだろう。その後再び来島どつくを離れ自立再建をすることになったが、窮状は変わらなかった(第2章第3節参照)。
 以上みてきたように、かつての「函館の顔」が揃って失われたも同然になってしまったことは、経済上の問題だけではない。一時期、西部地区にある小学校の児童に親の職業を書かせると、半数が函館ドック関係というクラスもあった。地域全体にとって、まさに「アイデンティティ」の存亡をかけた大きな問題であったといえるであろう。
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