通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第4節 交通・運輸体系の変容と函館の位置づけ
1 函館港施設の新設

戦後の停滞と北洋漁業の再開

港湾管理者と諸官庁

中央埠頭の建設

そのほかの港湾施設

石油基地と矢不来埋立計画

緑の島と湾岸道路

中央埠頭の建設   P469−P471

 函館港の本格的建設は、昭和27年の中央埠頭造成に始まる。中央埠頭の建設は、昭和2年から着手された北海道第2期拓殖計画に組み込まれていた(当時は第2埠頭という名称であった)。しかし一部が埋め立てられたまま、戦争により中断されていた。戦後、26年から北海道が埋め立てを開始(昭和24・25年の市をあげての猛陳情の結果)、これを引き継いだ函館開発建設部が本格的建設を始めたのである。これは、北海道総合開発計画による第1次5か年計画として位置づけられた。すなわち、長期計画を立て、全額国費で計画的に進行するというやり方をとっている。27年度から31年度が第1次5か年計画で、以下、5か年計画が継続する。こうして中央埠頭は北海道第2期拓殖計画から30年後、昭和33年に完成した。
 中央埠頭の性格は、青函連絡船埠頭のような専用埠頭ではなく、一般商港用の公共埠頭(港湾管理者の管理する港湾)である。その点は西埠頭も同じだが、西埠頭は事実上、北洋漁業の基地としてすでに機能していたので、純粋の一般商港用の公共埠頭とはいい難い。
 中央埠頭は、水深9メートル1バース、8メートル1バースと、西埠頭(7メートル)より深く、6000トンから7000トン級貨物船が接岸可能であった。大型貨物船の接岸には、船の大きさ、重さに合う水路および岸壁の深さがまず要求される。西埠頭および若松、有川両国鉄専用埠頭の7メートルという水深は、ほぼ5000トン級貨物船の接岸が可能な水深である(旅客船はもっと大型)。接岸可能の埠頭ということは、すなわち「沖泊り」しなくてよいということで、艀荷役の不要化を意味する。先例には国鉄若松埠頭の艀荷役不要化がある。それが中央埠頭建設の基本的特色である。
 第2の特色として、函館港始まって以来、初めて臨港鉄道、臨港道路が埠頭施設として、建設されたことがあげられる。ここに、海上と陸上輸送機械が接合され、初めて近代的機械化埠頭が実現したことになる。さらに第3の特色は、40年に埠頭尖端部に倉庫が建設されたことで、函館埠頭倉庫がそれである。函館埠頭倉庫は函館港の営業倉庫業者の共同出資によって建設された。

昭和30年代中頃の函館港(昭和36年『函館市勢要覧』より)
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