通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第4節 交通・運輸体系の変容と函館の位置づけ
1 函館港施設の新設

戦後の停滞と北洋漁業の再開

港湾管理者と諸官庁

中央埠頭の建設

そのほかの港湾施設

石油基地と矢不来埋立計画

緑の島と湾岸道路

戦後の停滞と北洋漁業の再開   P467−P468

 ここにいう函館港とは、若松、有川両埠頭、すなわち青函連絡船のための国鉄専用埠頭を除く埠頭をさす。一般に、函館港といわれるものである。現在の西部地区にある西埠頭(旧西浜岸壁)が中心で、戦前、戦中を通じて、これらの埠頭および物揚場は、主として北洋漁業に使用され、その根拠地であった。そのため機帆船、小型漁船の港であった。そしてこれについだのが、近海漁業船であった。
 昭和20(1945)年8月15日の敗戦以降、出漁不能となった北洋漁業は、その基地たる函館港に大打撃を与えた。「北海道新聞」は、20年10月3日付けの「動かない木船」という見出し記事で、「終戦直後大小千余隻の船舶が碇泊していたが、今みると、その約八割、八百隻は航行不能の機帆船で、残りの船も修理を要する船」と報じている。戦前、戦中を通じ、250隻を数えた艀(はしけ)も、21年6月には「現在使用できるもの六五隻に減少」していた(小川弥四郎所蔵文書「函館港埠頭並びに防波堤工事完成促進の陳情書」)。
 戦後の港湾建設の導火線は、この北洋漁業の再開であった(第1章第3節参照)。昭和26年、宗藤市長が会長となって函館市勢振興審議会が組織され、翌27年「市勢振興第一次計画書」(函図蔵)が作成されるが、振興策の要は北洋漁業であった。北洋漁業再開第1年目の27年は、母船3隻および独航船50隻と戦前に比して、きわめて僅少の船団の出漁が予定されていたにすぎないが、同計画書では前途は実に洋々たるの観があるとし、「往年の如くハシケ荷役に依存するようでは基地たるの価値がない」と断じ、接岸機械化荷役設備の拡充を力説している。北洋(公海)漁業の基地が起死回生の妙薬であったのは、対日講和条約の前年、26年の衰え切った港勢をみると、ただちに理解できる。「北海道新聞」は、26年の函館港を「置去りの港、港があくびしている」と時評し(2月23日付け)、「市長が東京へお百度を踏んで漸くポツンと外船一隻が入港すると、思い出したように港の諸施設がガラガラと動くが、すぐパタリとやんでもとの閑散に還つてしまう」と嘆いている。

独航船が密集する西浜岸壁(「道新旧蔵写真」)
 待望の北洋漁業は、昭和27年5月1日、大洋漁業、日魯漁業、日本水産の3船団が出漁し、再開された。問題は、せっかく再開された北洋漁業の船団の受入れそのものから起こった。30年9月7日付け「北海道新聞」は「北洋船の受入れ態勢は落第点」と母船会社から不満の声があがったことを報じている。この年の船団は14船団、三百数十隻という戦前並みの規模に戻っていたが、独航船の接岸岸壁が少なく、艀配船に不手際があり、5月出港の時にはほとんど「よくやった」と感謝していた各母船会社が、帰港受入れは落第と酷評している。市の港湾部では当初、帰港独航船は全部西浜岸壁に収容する計画であったが、先着独航船が接岸場所に係留し続けたり、あるいは、入港後に接岸場所を造成中の中央埠頭(当時第2埠頭といった)へ変更されるなどの問題が起こった。もちろん、西浜岸壁だけでは、全独航船の収容は無理なことは明らかで、しょせん接岸岸壁が少なく、北洋漁業の基地態勢に欠陥があることが現実に示された。中央埠頭の造成は、北洋漁業再開の過程で緊急の問題であることが、露呈していったのである。
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