通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第4節 交通・運輸体系の変容と函館の位置づけ
1 函館港施設の新設

戦後の停滞と北洋漁業の再開

港湾管理者と諸官庁

中央埠頭の建設

そのほかの港湾施設

石油基地と矢不来埋立計画

緑の島と湾岸道路

石油基地と矢不来埋立計画   P473−P474


上磯町七重浜の工業用地(昭和36年『函館市勢要覧』より)
 石炭から石油へとエネルギー革命が進行するなか、昭和30年代の函館港は、北海道内の石油基地として高い地位にあった。38年に苫小牧港ができるまで、石油保有量では小樽と並んで、室蘭につぐ第2位を占めていた。昭和30年4月6日付けの「北海道新聞」には、「巴港に石油ブームの波/壮観、廿九のタンク」と題する見出しで、シェル石油や出光興産などのタンクが中央埠頭付近の臨海部にできたことを紹介している。31年には、上磯町と図って同町七重浜に北日本石油株式会社の製油所を誘致した(同社は39年に社名をアジア石油と変更)。このアジア石油の存在が、日本セメント上磯工場と並んで、矢不来臨海工業地帯造成の構想を生んだのである。アジア石油函館製油所は、室蘭の日本石油、苫小牧の出光興産と並んで北海道の3大製油所のひとつであった。
 政府の新全国総合開発計画策定を機に、昭和45年、函館市のほか4町(亀田町、上磯町、七飯町、大野町)が函館圏総合開発基本計画を策定した。この計画には、港湾区域を函館の対岸上磯町矢不来地区まで拡大する函館新港の構想が含まれていた。矢不来地区の地先海面を埋め立て、工業用地を造成して重化学工業地帯を形成しようとする壮大な計画である。石油化学工業を中心にすることと(30年代の石油タンクブームを受ける)、工業用地の東側にフェリーターミナルを建設してフェリー基地とすることを中核に、48年に着手を予定し、目標年次55年の工業出荷額を4000億円と想定した。
 しかし函館市は、48年2月、地域住民の完全なコンセンサスを得られないと判断し、市議会に計画断念を表明した。中止の理由は、埋立海面に漁業権を持つ上磯漁業協同組合が、折りからの貝類養殖の成功を背景に、埋め立ての反対を表明したため、埋め立てが不可能となったことに加え(公有水面埋立法)、石油ガス工業のもたらす公害批判が全国的に起こっていたことなどの諸問題にあった(第2章第3節参照)。しかも、この年の10月、第1次石油ショックが起こったのである。計画の中止が、その後の函館港造成の転換をもたらすことになり、以後は、現函館港区域内でのみ港湾整備をすることになった。しかし限られた空間のなかで、北洋漁業の基地、青函連絡船のターミナル基地という機能を維持しながら整備を進めていくという難しさがあり、進捗状況は鈍かった。「北海道新聞」(昭和59年4月21日付け)は、その頃まだ大型船が接岸できずにいた函館港のことを天然の条件に恵まれたがゆえの「先発後進」だと書いている。
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