通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第6節 民衆に浸透する教育

1 大正デモクラシーと教育

1 初等教育

増大する就学児童数

続く二部教授と授業料徴収

大正新教育の実践

教員研修の組織化

二部教授の調査研究と実施

二部教授への批判

二部教授廃止建言書

建言書と区会

尋常夜学校の新設

児童転送の問題

教員の実況

大正新教育の実践   P635−P637

 明治33年の第3次小学校令と、同40年の小学校令の改正によって成立した小学校制度の基本は、昭和16年まで変わることはなかったが、第1次世界大戦後の社会状勢に対応する教育の在り方について審議・調査するために内閣に設置された臨時教育会議の第2回答申は、「国民道徳ノ徹底ヲ期」し「帝国臣民タルノ根基ヲ養フニ一層ノ力ヲ用」いることを説き、従来からの目的を堅持しつつ、教育の方法については特に「児童ノ理解ト応用トヲ主トシ不必要ナル記憶ノタメニ児童ノ心力ヲ徒費スルノ弊風ヲ矯正スルノ必要」を唱え、さらに「諸般ノ施設並ニ教育ノ方法ハ画一ノ弊ニ陥ルコトナク地方ノ実情ニ適切ナラシ」めることを提唱していた。このように体制の側でも方法の形式化に対する改善の必要は認められていたといえる。
 教育の形式化に対する批判をより徹底して行い、教育方法の改善に大きな貢献をなしたのは、欧米における新教育運動の影響下に、大正デモクラシーの思潮を背景として展開された大正新教育の運動であった。この運動は師範学校の付属小学校や私立学校を中心に展開され、全国的な影響を及ぼすものとなった。このような実践を背景に、大正10年に東京で開催されたいわゆる「八大教育主張」講演会は、新教育の多様な展開を示すデモンストレーションの場となっていった。「八大教育主張」というのは樋口長市の「自学主義教育」、河野清丸の「自動主義の教育」、手塚岸衛の「自由教育」、千葉命吉の「一切衝動皆満足論」、稲毛金七の「創造教育」、及川平治の「動的教育」、小原国芳の「全人教育」および片上伸の「文芸教育論」である。これらの主張は、「自学」「自動」「自由」「創造」「動的」など、大正新教育の意図するところを端的に表している。
 このような新教育の機運が、大正期の函館の教育界にも影響を及ぼしていたことが、当時の教育雑誌に寄せられた各学校の報告から明らかである。函館教育会では大正3年暮に、区内の小学校に対して教育上の重点事項、研究事項などについて質問を出し、回答を『函館教育』第202号誌上に掲載したが、女子尋常高等小学校では近時実施の事項として「教授は児童をして自動的に学習せしめ、他日社会に立ちて活動の人たるやうに養成する方法につき研究しつつあ」るとし、訓育面で「適切なる自治的訓練法につき研究しつつあ」ると報告している。新教育の主眼をなす教授面の自動、訓育面の自治が研究の主題として取り上げられているのである。宝尋常小学校の報告は教育上最も力を入れている事項として「如何にして児童をして、進取的自学自修の位置に、到達せしむべきか」を挙げており、教授における自学自修が実践上の力点にまで熟していることが分かる。これら2校の報告から区内の小学枚で新教育の研究と実践が始まっていることが知られるのである。東川尋常高等小学校でも、教授上主力を注いでいる事項として「自ら学ぶの努力養成」を掲げている。
 自学、自習、自治、自発などを原理とする新教育の実践は、大正6年にはようやく定着しつつあったようである。宝小学校では児童教養上の方針として、「将来の社会に於ては活動性あるしかも創造力にとめる人物を要するのでありますから其の積りで各方面に努力してゐます。従つて教授にも訓育にも自発といふことを重んじ児童の個性と自由を尊重して居ります」と報告している(『函館教育』第209号)。
 大正期の函館において最も組織的、系統的に新教育の研究に取り組んだのは函館師範学校付属小学校である。同校では北海道小学教育研究会を組織し、研究会を定期的に開催して、その成果を研究物にまとめて刊行している。『付属小学校沿革史塙』によると、北海道小学教育研究会は「代用附属時代第一期の後半から始められたもので、最初は会場を代用附属小学校とし、行事は協議題の説明、これに対する意見発表、研究授業及び批評会、会員の意見発表、講演等で」、盛会であったという。第3回以降、会場を道内各地に移して開催されているが、大正10年帯広町を会場に開催された第3回研究会では、協議題の第1問題に「自由教育の真義及び其実際教育上の考慮点如何」、第2問題には「綴方教授に於ける随意選題主義並びに課題主義の意義とその特質如何」が取り上げられている。手塚岸衛の自由教育、芦田恵之助の随意選題主義などが実践的に研究されている。倶知安第三小学校を会場に大正11年に開かれた第4回の研究会に提出された協議研究題「教育を芸術化するの意義と其事実如何」に対する付属小学校の解答原案は、片上伸の芸術教育論を「氏の所論は一番私達にぴつたりするやうである」と評価し、「私は教育の全体、教授訓練管理経営に亘つて宜しく芸術教育を光被せしむる必要がある」と述べて、全面的な採用を説いていた。
 付属小学校の新教育の研究と実践は、当時の新教育の理論と実践とを摂取して提起され、函館の新教育の水準を代表しているといえる。同じ年の『函館教育』には会員による成城小学校および千葉県師範学校付属小学校の新教育の参観報告が掲載されており、函館における新教育研究の気運の高まりを示す事実といえよう。
 函館における新教育の導入と展開は、大正初期に研究と実践が始まり、10年代に本格的な研究・実践の時期を迎えたといえるが、函館では明治末期以降二部教授が広範に実施されており、大正期に入ると二部教授のために小学校児童の中等学校進学の際の成績不振が生じているとして区民の間で問題にされ、準備授業も行われており、新教育の定着には不利な条件になったとみられる。また、大正10年代には、茨城や長野などで新教育への弾圧が始まっており、このことも函館における新教育の発展を阻む要因となったと見られる。大正末期の新教育の様相は明らかでない。
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