通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第4節 交通・運輸体系の変容と函館の位置づけ
2 国鉄青函連絡船と民間フェリー

国鉄青函連絡船の復興

占領軍・朝鮮戦争による運行規制

新造船と貨物取扱港湾施設の強化

「洞爺丸台風」とその後のディーゼル化

合理化と乗客・貨物の減少

フェリーブーム

野辺地航路と七重浜ターミナル基地

連絡船の終焉と青函トンネル

連絡船の終焉と青函トンネル   P487−P489

 国鉄は、貨物も旅客も全体に輸送実績が落ち落ち込んでいたが、とくに青函連絡船は航空機の影響が大きく、利用者は東北地方と北海道の往来が中心となっており、回復の見通しは暗かった。昭和40年代以来、合理化、職員の要員削減などに明け暮れしたものの及ばず、ついに63年3月13日、函館出航の羊蹄丸の終航をもって、青函連絡船の歴史は幕を閉じた(第7編コラム55参照)。そして青函トンネルの時代へと移行するのである。
 昭和14(1939)年、鉄道省の「弾丸列車計画」が、青函トンネル実現のルーツである。戦後、21年に「津軽海峡調査委員会」が発足して、ルート選定、地質調査が開始されている。この段階では、運輸省の推進論に対し、五稜郭工機部の技術陣は、むしろ批判的であった。24年1月9日付けの「北海道新聞」に、「是か非か青函トンネル/工事完成まで三十年/その費用二千億円/専門家間に無用の声」として、高橋五稜郭工機部長の「おろかな計画」という批判の声を、大々的に載せている。このような批判を受けていたトンネルの実現を一挙に具体化したのは、29年の「洞爺丸台風」による海難事故である。
 以下、松前郡福島町が刊行した『津軽海峡・青函トンネル工事の歩み』で経過の概要を記しておこう。
 昭和30年、津軽海峡連絡隧道技術調査委員会を設置、津軽海峡西口の海底地質図を作成、31年、「海峡の海底隧道は発掘可能であり、工期は一〇年以内、工費は六〇〇億円程度」という結論を出した。38年、北海道側(松前郡福島町)で調査坑の着工式がおこなわれ、試掘調査準備工事に着手した。翌39年、日本鉄道建設公団が発足して、調査坑発掘が開始された。45年、本州側調査坑も坑底に到着した。46年、青函トンネルは、調査線から工事線に編入され、同時に、「全国新幹線網計画」がスタート、今までの「青函トンネル在来線計画」が急遽、「新幹線計画」に変更された。この計画では、青函トンネルは、新幹線のレールで、表定速度時速200キロメートル、東京−札幌間を5時間で走ることになっている。

調査坑の地質調査工事(昭和38年、福島町、「道新旧蔵写真」)

工事中の青函トンネル
 ちょうどこの頃から、乗客が国鉄から航空機、自動車へ転換し、貨物も民間海運への移行が顕著になり、国鉄の経営は赤字に転化し始める。48年の石油ショックで、高度成長経済がストップをかけられると軌を一にして、青函トンネル工事は、異常出水になやまされ、開業予定が遅れに遅れる。同時に、国鉄の累積赤字は雪ダルマ式に膨らみ出した。44年の累積赤字4137億円が、54年には、6兆568億円となっている(運輸省鉄道監督局調)。
 55年の国鉄再建法は、60年までに収支困難な赤字線(特定地方交通線)を廃止することになる。53年、青函トンネル新幹線化を修正し、在来線を使用する三線軌条方式に移行した。55年8月、塩川運輸相は、初めて、青函トンネル完成後、青函連絡船廃止を言明した。かくして、青函トンネルは、国鉄の累積赤字と、工期の遅れ(地質の予想をはるかに超す悪さによる)の2つの原因で、青函連絡船の代替機関となったのである。
 昭和63年3月13日、青函連絡船廃止と同時に、青函トンネルが開業した。
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