通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 「洞爺丸台風」とその後のディーゼル化 |
「洞爺丸台風」とその後のディーゼル化 P480−P482
貨物船石狩丸の通信士坂本幸四郎が著した『青函連絡船』がその状況を記録している。国鉄は9月28日、沈没船舶の遺体揚収作業を開始し、9月30日まで、臨時ダイヤ(13運航)を編成した。10月に洞爺丸、11月に第11青函丸、日高丸、十勝丸、北見丸の浮揚作業を始め、翌30年に日高丸、洞爺丸、十勝丸を引揚げた。 洞爺丸の遭難は、平時下、未曽有の海難事故であり、青函連絡船史上、昭和20年の空襲と並ぶ大事件として記録されなければならないが、それとともに、この遭難の教訓として採った国鉄の措置の重要性も指摘されなければならない。運輸省は、造船技術審議会に連絡船臨時分科会を設け、学識経験者の意見を聞いたうえで、昭和30年に、新造船および沈没船ならびに現在船に対する勧告を受けた。これに基づき、国鉄は第11青函丸と北見丸の代船として2隻の新造船(檜山丸と空知丸)を発注、同年9月就航させたが、この両船は連絡船史上初めてのディーゼル機関を採用した。それまでの連絡船は、すべて石炭を燃料とする蒸気タービンであったから、燃料革命の出発であった。ついで客貨船十和田丸が32年10月に就航した。『青函連絡船史』は、これら新造船の就航をディーゼル化と表現している。陸上のモータリゼーションに並んでおこなわれた船舶の石炭から石油(重油)への転換である。この転換を機に、36年6月、東京に青函連絡船取替等計画調査委員会が持たれ、乗組員の削減を中核とした「近代化」の実現を図っていくのである。
近代化船の第1船は、39年3月完成の津軽丸(2代目)だった。ついで、旅客兼車両運搬船八甲田丸、松前丸、大雪丸(2代目)、摩周丸(2代目)、羊蹄丸(2代目)と、6隻が40年7月までに建造された。近代化船の就航で運航要員は従来の半分程度で済むことになり、その結果、要員1人当たり輸送力は、約3倍になったという(同前)。新鋭船の燃料は、重油から軽油へと変わる。新造船津軽丸と廃船となる客貨船羊蹄丸(初代)の比較表があるので紹介する(表2−33)。
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