通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 合理化と乗客・貨物の減少 |
合理化と乗客・貨物の減少 P482−P483 このような生産性向上策が、要員半減を目標にする以上、労働組合の反発を招くのは当然である。『青函連絡船史』の記録によると、青函連絡船史上、有名な労働争議は、23年9月の政令201号への抗議闘争以外は、32年5月11日の摩周丸事件(時間内職場集会)を皮切りに、すべて洞爺丸遭難以後に起きている。生産性向上をめぐる労使問題の核心は、連絡船取替計画の実施と、過員470名の陸上配置の実施(昭和39年4月から41年7月)にあった。労使問題の根幹にかかわる問題が、1年間でスムーズといわれるような解決をみたのは、その「過員」が24年の国鉄人員整理のように、単なる解雇(首切り)ではなく、すべて「陸上配転」という形をとったからであろう。合理化にともなう定数削減の実施は、それ以降も続く。一方、50年代に入ると、旅客も貨物も航空機、フェリー、海上コンテナへ転移し、国鉄離れがどんどん進行した。戦後の連絡船の輸送状況を概観すると(図2−32)、旅客の輸送は、昭和28年に至り、ようやく戦前のピーク(18年の209万7889人)まで回復し、その後上昇を続け、48年、498万5695人とピークに達する。しかし、50年代の減少は急激であった。 貨物の輸送実績をみると、昭和20年から22年の3年間は100万トン台である。貨車航送船新造の23年以降の上昇は急速で、26年はついに戦前の最高(19年の384万8153トン)を突破して400万トン台に入った。「洞爺丸台風」で一時落ち込んだが、31年、新造船によって400万トン台を確保、上昇の一途をたどる。39年ディーゼル化に伴い、600万トン台に達し、46年最高の855万3033トンとなったが、この年を境に減少の一途をたどった。 |
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