通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 新造船と貨物取扱港湾施設の強化 |
新造船と貨物取扱港湾施設の強化 P479−P480
新造船のほかに、すでにふれた第7青函丸と第八8青函丸の復活があり、さらに空襲で沈没した第6青函丸、第10青函丸を引揚げて修理就航させた。青函丸と名のつく貨物船のうち第1から第4までは通常の貨車航送船で、第5以下第12までの8隻は戦時に急造された低質船で、いわゆる戦時標準船だったが、第10青函丸までの10隻が就航していた。 23年就航の貨物船4隻は、新鋭の通常船なので、修理戦時標準船4隻を加えた18隻の陣容は、戦時中の貨物船の実力に近いものといえよう。戦後早々のこの回復は、驚異的だといってよい。函館の若松・有川埠頭、青森の埠頭が戦災を受けず健在なので発着に不便はなかった。この連絡船の運航体制は、29年9月26日の「洞爺丸台風」まで続くのである。 貨物港湾設備として、貨車航送専用岸壁の有川埠頭は、昭和17年4月、「韓国人労務者と小学校高等科生徒の勤労動員による突貫工事」で進められ、「昭和十八年一月十日、下り仕訳の一部を完成して使用開始した」と記録されているように(前掲『青函連絡船史』)、一部のみの完成であった。戦後、その完成を期して工事が進められ、26年6月15日、残された東側船入澗が造成され、ここに有川埠頭が完成した。有川埠頭に直結する陸上施設としての操車場(五稜郭操車場)の建設により、戦後、有川埠頭が国鉄貨物を扱う中心となっていくことになる。そこで本州・北海道各地向けの小口中継貨物を整理する広大な操車場が必要となった。すでに五稜郭操車場は有川埠頭の陸上関連施設として昭和19年11月に使用開始されていたが、24年4月5日、小口中継貨物整理場が上下分解引上線の間に新設された。さらに28年4月、下り仕訳線のループ化がなり、ほぼ完成した。 |
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