通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第4節 交通・運輸体系の変容と函館の位置づけ
2 国鉄青函連絡船と民間フェリー

国鉄青函連絡船の復興

占領軍・朝鮮戦争による運行規制

新造船と貨物取扱港湾施設の強化

「洞爺丸台風」とその後のディーゼル化

合理化と乗客・貨物の減少

フェリーブーム

野辺地航路と七重浜ターミナル基地

連絡船の終焉と青函トンネル

新造船と貨物取扱港湾施設の強化   P479−P480

表2−32 戦後の新造船
船名
トン数
積載貨車数
就航年
洞爺丸
羊蹄丸
大雪丸
摩周丸
北見丸
日高丸
十勝丸
渡島丸
3,898
3,896
3,885
3,782
2,911
2,932
2,911
2,911
19
19
19
19
44
45
43
43
昭和22年11月
昭和23年 5月
昭和23年11月
昭和23年 8月
昭和23年 2月
昭和23年10月
昭和23年 4月
昭和23年 7月
『青函連絡船史』より作成
注)上位4隻は旅客兼車両運搬船、以下4隻は車両運搬船、積載貨車はワム型換算による
 小型貨物船、機帆船の活躍はあったが、青函連絡船の本命は、貨車航送船である。だから戦後の貨物需要の増大に対応する決め手は、貨車航送船の新造と、これを呑吐する有川埠頭の増強しかあり得ない。昭和21年、貨車航送船8隻(旅客兼車両運搬船4隻、車両運搬船4隻)の新造船がGHQから許可された。この8隻は、早くも22年に1隻、23年には全船が就航した。それは表2−32のとおりである。
 新造船のほかに、すでにふれた第7青函丸と第八8青函丸の復活があり、さらに空襲で沈没した第6青函丸、第10青函丸を引揚げて修理就航させた。青函丸と名のつく貨物船のうち第1から第4までは通常の貨車航送船で、第5以下第12までの8隻は戦時に急造された低質船で、いわゆる戦時標準船だったが、第10青函丸までの10隻が就航していた。
 23年就航の貨物船4隻は、新鋭の通常船なので、修理戦時標準船4隻を加えた18隻の陣容は、戦時中の貨物船の実力に近いものといえよう。戦後早々のこの回復は、驚異的だといってよい。函館の若松・有川埠頭、青森の埠頭が戦災を受けず健在なので発着に不便はなかった。この連絡船の運航体制は、29年9月26日の「洞爺丸台風」まで続くのである。
 貨物港湾設備として、貨車航送専用岸壁の有川埠頭は、昭和17年4月、「韓国人労務者と小学校高等科生徒の勤労動員による突貫工事」で進められ、「昭和十八年一月十日、下り仕訳の一部を完成して使用開始した」と記録されているように(前掲『青函連絡船史』)、一部のみの完成であった。戦後、その完成を期して工事が進められ、26年6月15日、残された東側船入澗が造成され、ここに有川埠頭が完成した。有川埠頭に直結する陸上施設としての操車場(五稜郭操車場)の建設により、戦後、有川埠頭が国鉄貨物を扱う中心となっていくことになる。そこで本州・北海道各地向けの小口中継貨物を整理する広大な操車場が必要となった。すでに五稜郭操車場は有川埠頭の陸上関連施設として昭和19年11月に使用開始されていたが、24年4月5日、小口中継貨物整理場が上下分解引上線の間に新設された。さらに28年4月、下り仕訳線のループ化がなり、ほぼ完成した。
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