通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第3節 函館の産業経済の変貌
2 「イカの都市」の「スルメの時代」

スルメを基底とした函館の産業経済

スルメの加工業と産地形成

スルメの流通と集散市場

スルメの輸出と輸出港

スルメの先物取引と函館海産物取引所

スルメ時代の終焉

スルメの先物取引と函館海産物取引所   P397−P400


函館海産物取引所の内部(「道新旧蔵写真」)
 函館海産物取引所は、戦後の商品取引所法(昭和25年)の施行に伴って全国に開設された商品先物取引所の1つであり、昭和26年7月1日に市内末広町の函館海産商同業組合会館内に開設されている(函館海産物取引所『五周年記念特集号』)。同所はその名に示されるごとく海産物を対象とした、しかもスルメの先物(商品)取引所であった。上場商品としてスルメ、昆布、魚油、魚粕の4品目の海産物が認可されていたが、実際はスルメ、なかでも秋採スルメの格付先物取引(標準品取引とも称す)だけがおこなわれていた。このような海産物、しかもスルメを取引対象とした商品取引所は日本だけでなく世界でも例がなく、同所は特異な商品取引所であった。
 このような商品取引所が函館に開設された背景には、第一に函館が戦前からのスルメの一大集散市場としてスルメ取引の中心地であったこと、第二に北洋漁業の喪失に対する経済再生策の一環から函館経済界の全面的バックアップによって支持されたものであったこと(同所の初代理事長に地元政・財界の大立者、平塚常次郎が就任)、第三は明治期の函館米穀塩海産物株式取引所における上場商品であった米穀が食料管理制度、塩が専売制度、および株式が証券取引所といった形で順次上場不可能となり唯一残されていたのが海産物(スルメ)であったこと、第四に函館の商業風土とも関わった海産商界の投機的取引に対する期待と思惑が大きく交差していたこと、などが指摘される。  同取引所はその上場商品の特異性とも関わっていくつかの特徴を有していた。そのひとつが当業者主体の生産地取引所であった点である。それは同取引所の会員・仲買人がおもに地元・本州等の海産商・商社で構成されていたこと、しかもその主体が地元海産商であったことからも明らかであった。ちなみに昭和30年の会員(36人)の構成は、地元海産商25人、本州商社6人、小樽・札幌海産商2人、大手漁業会社2人、その他(函館海産代行株式会社)1人であり、会員の70パーセントが地元海産商であった。それとあいまって地元海産商は取引所の取引においても圧倒的なウェイトを占め、昭和26年度から31年度の5年間の実績ではその売買数量の81パーセントを取り扱っていた。このことは同取引所が地元海産商に主導された生産地取引所であったことを裏付けている。しかし、生産地取引所としての性格が強かったとはいえ、「取引数の内容を検討すると函館商人の中でも、積商人的性格のものが一人当の売買数量は多く、且つ、本州貿易商又は消費地卸売商社の一人当売買数量も、数名を除けば、一般的に函館生産地問屋的性格の商人の売買数量よりかなり多くなつている。……このことは、内容的には、消費地卸売り商社又はその代行者的存在である函館積商人が、取引所の売買の主導権を把握しており、従つて……取引所の機能を活用することによつて、消費地側商人の利潤確保を補完する機関としての性格をより強くもつてい」たことが指摘されている(前掲『いか漁業の経済分析』、以下も同書くによる)。
 そのことは、他面で同取引所が函館積商人、つまり移出業者や消費地側商人のヘッヂ(保険)の場として活用されていたとも解される。なお、地元海産商は委託業者12人と移出業者13人から構成され、売買双方ほぼ均衡していた。
 さらに特徴の2つ目は同取引所において投機的取引が中心で、とくに会員間の手張り(マネー・ゲーム)が多かった点である。それは、「会員中大部分を占めている函館海産商人は、個人経営者が多く、且つ法人といえども小資本経営であり、しかも、これらのスルメ現物及び取引所先物取扱金額は、かなり膨大であり、スルメ価格の変動の激しさと相俟つて、きわめて投機的性格が強い」からであり、さらに「現物スルメ取引における不振をなんとか挽回すべく、……取引所価格変動を利用して投機的取引を行おうとする傾向が生ずるから」であった。
 加えて函館のスルメ先物取引は、「生産地域が一部に偏在しており、且つ、生産期と需要期との関係で極端な端境期の在庫減少が存在するために一部買占業者に商品を独占せしめ、価格を自由に左右せしめる可能性を与え」、それが「過剰投機を誘致せしめる客観的条件」となっていたのである。そのため、「函館海産物取引所においては過去例年のごとく特に端境期を中心に買占め、玉締め、攪乱的売崩し、その他不正と考えられる操作によって価格の異常な変動が発生してい」たのであった。そのなかでとくに昭和27年、29年、31年に大掛かりな仕手戦が起き、27年と31年の2度にわたって総解合(そうとけあい、売り方と買い方の全部の建玉について売買当事者が協議して売買約定を一定の値段によって決済すること)という不測の事態を招いていたのである。
表2−11 函館海産物取引所におけるスルメ格付取引の出来高推移
年度
出来高
受渡率
(%)
数量(枚)
金額(千円)
昭和26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
45
46
728
34,874
93,945
93,290
82,567
154,930
33,924
46,356
33,444
18,566
12,143
7,039
6,778
7,558
5,526
4,180
3,818
3,618
3,137
3,652
3,889
50,422
2,095,570
3,436,466
3,890,636
3,513,371
5,575,441
1,681,042
2,250,634
1,805,888
1,548,997
1,447,487
1,130,899
1,133,382
1,470,171
2,027,352
1,130,912
1,386,871
1,242,539
1,065,370
2,130,034
2,011,595
11.5
8.7
8.6
11.4
9.6
10.7
3.1
11.8
12.2
11.7
11.5
12.0
16.0
6.0
5.5
8.7
8.9
11.6
7.1
2.2
0.2
函館海産物取引所資料より作成
注)昭和26年度は6月〜9月、昭和27年度以下は10月〜翌年9月
1枚の内訳は昭和26〜32年(5俵)、同33・34年(100貫=20貫入5俵)、同35〜41年(75キロ入10俵)、同42・43(75キロ入12俵)、同44・45年(900キロ)、同46年(400キロ)
 同取引所は初年度で728枚(5042万円)の出来高をあげて短期間ながら好調なスタートを切り、以後昭和31年度までほぼ上昇基調で推移し、ピークとなった昭和31年度には15万枚、約56億円にのぼっていたが、しかし、31年に発生した買占めとそれによる総解合を境として取引は急速に衰退に向かっていくことになり、以後長期にわたる低迷が続いていったのである(表2−11)。
 取引所の衰退の要因は、直接的にその存立基盤であったスルメの現物取引の衰退であったが、しかし要因はそれだけに止まらなかった。それには、第一に昭和29年から31年に頻発した買占め・仕手戦に対し一般会員や大衆投機者が取引所から逃散したこと、さらに第二に道漁連・道庁も取引所・海産商に対する反発と対抗(共販等)、第三に商品受渡における事故の多発、第四に北洋漁業の再開、第五に当業者主義の限界と会員の零細性・地元海産商の弱体化、第六に専業取引員の勧誘や北洋サケマス・冷凍イカの上場の失敗、なども深く関わっていた。
 函館海産物取引所は幾度かの起死回生策に努めたものの低迷から脱することなく昭和47年3月に解散し、20年の歴史に幕を閉じている(3月30日付け「道新」)。
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