通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第3節 函館の産業経済の変貌
2 「イカの都市」の「スルメの時代」

スルメを基底とした函館の産業経済

スルメの加工業と産地形成

スルメの流通と集散市場

スルメの輸出と輸出港

スルメの先物取引と函館海産物取引所

スルメ時代の終焉

スルメの加工業と産地形成   P386−P389

 スルメ加工業は函館においてもっとも歴史を有する地場産業のひとつである。古くからイカ漁業の基地およびそのイカの水揚港となってきたことと関わって、全国有数のスルメ加工地帯ともなってきたからである。その背景には、地元の生鮮消費が狭隘であることや本州方面の大都市市場への生鮮出荷が海峡によって遮断されてきたこと、冷凍化も凍結・冷蔵の対応能力や物流面で大きく制約されていたことなどから、供給されてきた生イカをおもに大量処理の効くスルメ加工に仕向けざるを得なかったという特有の事情も大きく働いていたのである。それは同じイカ水揚港であり、スルメの加工地帯であった八戸地区が東京市場向けの生鮮出荷の産地へと展開していったことと対比するならば明らかであろう。
表2−7 スルメ製造高
a.昭和27年から29年
年次
数量
金額
対道南比
昭和27
2,890
805
39.5%
28
3,060
1,082
41.0%
29
2,720
934
26.6%
中込暢彦『イカ漁業の経済構造』より作成

b.昭和28年から32年
年次
数量
金額
昭和28
2,136
29
2,241
730
30
1,997
647
31
442
32
845
『函館市水産要覧』(昭和33年)より作成
注)単位は数量(千貫)、金額(百万円)
 函館におけるスルメの製造高は、典拠とする資料により誤差はあるものの、昭和28年から30年の3か年で20億円以上に達しており、それを同期間平均の製造業全体(141億円)および食料品製造業(61億円)の出荷額と比較すればその経済的な重要性が明らかである(『函館市史』統計史料編)。また函館市の生産高が道南全体の30パーセントから40パーセントを占めていた(表2−7)。
 函館におけるスルメ加工業は昭和20年代に隆盛を極め、とくに26年から28年頃を全盛期として30年代なかばまでに衰退していくが、加工業者の数もそれに応じて変化し、25年で380軒から390軒、翌26年で450軒前後に増加、そして27、28年をピークに減少に転じ、31年で330軒前後となっていた(昭和26年8月10日付け、31年11月20日付け「道新」)。こうしたスルメの加工業は干場との関係からおもに弁天町、住吉町、大森町、海岸町などの浜筋に展開されていたが、その他にも七重浜方面などの市街地から離れた地区で集団的に営まれていた。最盛時には本町付近の市街地や住宅地まで広がっていき、蝿・悪臭・廃水といったトラブルを引き起こしていた(昭和27年9月2日付け「道新」)。
 スルメの加工業者は多様な業態から構成されており、それにはスルメ専業の加工業者、イカ漁業とスルメ加工業を兼営する一貫業者、他業種との兼業の加工業者、家内工業的加工業者などがあげられる。昭和31年の内訳では、専業業者140軒、一貫業者60軒、家内工業的・兼業者等130軒であった。そのなかで主力となっていたのが専業および一貫の加工業者であり、なかでも専業加工業者であった。それらの中心となった上位規模層(従事者規模で20名から30名以上)の加工業者(157軒、31年)の取扱規模をみると、「五〇〇〇貫以下」52件(33.1パーセント)、「五〇〇〇貫〜一万貫」63軒(40.1パーセント)、「一万〜一万五〇〇〇貫」24軒(15.3パーセント)、「一万五〇〇〇貫以上」18軒(11.5パーセント)となっていた。これによれば4分の3弱の業者が1万貫以下の取扱であるが、残る4分の1強が1万貫以上の取扱となっており、とくに1万5000貫以上の大規模業者が18業者も存在していたことがわかる(市農林水産部調査)。
表2−8
函館水産加工協同組合員の構成(昭和29年)
 
内訳
業者数(社)
業種別 スルメを主とするもの
塩辛を主とするもの
両方を兼営する者
31
5
5
取扱規模別 1300俵以上
1300〜1000俵
1000〜700俵
700俵以下
3
7
15
16
中込暢彦『イカ漁業の経済構造』より作成
注)この年、全組合員数は41社。スルメ総取扱量は、27,000俵
 そうした有力な専業加工業者を組織していたのが函館水産加工協同組合であったが、これには41名の組合員が加入し、うち31名がスルメの加工を主とする者であった。残りは塩辛の加工を主とする者およびスルメと塩辛の加工を兼営する者であった。これらをスルメの取扱規模でみると、「一万四〇〇〇貫以下」16業者、「一万四〇〇〇〜二万貫」15業者、「二万〜二万六〇〇〇貫」7業者、「二万六〇〇〇貫以上」3業者となり、数値が最盛期のものと思われることから前記の規模より全体に取扱規模が大きく現れているが、ここでの1万4000貫以上の層が前記の1万5000貫以上の層にほぼ相応すると考えられ、当該組合に上位規模の加工業者が集まっていたことがうかがえる。ちなみに組合員全体のスルメの取扱総量は2万7000俵(54万貫)で、それは市内産スルメの30パーセントから40パーセントを占めていた(表2−8)。
 他方の一貫業者は函館におけるスルメ加工業を特徴づけるものでもあるが、こうした形態がとられてきた背景には函館において水揚したイカの処理の方法として船主が自らもスルメ加工を兼営していくか、もしくはスルメ加工業者に原料として販売していくかのいずれかの対応を選択せざるを得なかったという事情が大きく働いていた。つまり、比較的資力のある船主はスルメまで加工し製品で出荷していたのに対し、資力のない船主は生イカのまま加工業者に原料として販売していたからである。後者においては加工業者と船主との間で仕込関係が結ばれていた。函館市漁業協同組合には130名のイカ船主が組合員として加入していたが、このうち60名が一貫業者であった。 
 函館にはこうした本業の加工業者のほかにも副業的な小口業者や内職者が多数存在していたことも付け加えておかねばならない。副業的な業者は、とくに全盛期の25年から27年頃に、不景気によるにわか加工屋の急増によって25年で約1500軒、26年で約2000軒にのぼっていたといわれる。また、スルメ加工と関わったイカさきやイカ掛けの内職者もかなりの数にのぼり、全盛期には弁天町、山背泊から住吉町、宇賀浦町、高盛町、浅野町、七重浜方面の浜筋にかけて5000名以上の内職者が存在していたといわれる。なお、内職の出来高賃金は、昭和26年の場合、イカさきで100尾5円から7円、イカ掛けで100尾3円、スルメ延ばしで1枚5銭であった(昭和26年8月10日付け「道新」)。
 このようなスルメ加工業における従事者数は26年で約4000名、31年で約3000名とされ、前述の内職者等も加えるならば1万名にも及ぶ人びとがスルメの加工に従事していたことになる。しかもその従事者の多くが女性によって占められており、そのことは当該加工業が家計補充的な主婦の低賃金労働に依拠して成立していたことを物語っている(412頁参照)。
 しかしながら函館におけるスルメ加工業はイカの大凶漁による打撃を受けた昭和31年を境として急速に衰微していったのである。
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