通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 スルメの輸出と輸出港 |
スルメの輸出と輸出港 P394−P397 函館におけるスルメ集散市場の展開を支えていたものの1つがスルメの輸出および輸出港であった。それは、単に函館にとってスルメが戦前からの主要な輸出品であったというだけでなく、集散市場の再生において重大な契機ともなっていたためである。つまり、昭和25年は函館スルメ市場の再興における起点ともなる年であったが、しかし同時に統制の解除と食料事情の好転に伴う需要の激減のなかで150万貫から160万貫にのぼる滞貨の増加と相場の暴落によって苦境に直面していた時期でもあり、その局面打破のきっかけとなったのが香港向けの輸出増大であったからである。さらにスルメ輸出は昭和25年から30年にかけて高水準が続いていくが、その期間はまさに函館におけるスルメ市場の隆盛期とも重なっていたからである。昭和25年にスルメ輸出が急増に転じた要因は、朝鮮戦争による南北朝鮮産スルメの輸出途絶であった。それがまさに20年代前半までの本道産スルメの輸出において最大の障害となっていたからであった。スルメの輸出高は翌26年に1万8383トン、27年には最高の2万6462トンに達したが、28年には1万4635トンと前年対比で半数近くまで減じ、29年に1万3768トン、30年に1万304トンと減少をたどっている。この間のスルメ生産に占める輸出比率は26年から30年の平均で29パーセント、とくに輸出のピークとなった27年は38パーセントに及んでいた(函館税関『函館港貿易の推移』)。 輸出スルメの仕向先はおもに香港・マライ・シンガポール・台湾など4地域であり、それらで輸出総量の80パーセントから90パーセントを占めていた。このうち、香港・マライ・シンガポールは中継輸出地であったことから輸入したスルメは周辺地域に再輸出されていた。スルメはおもに華僑など中国系の人びとによって消費されていたことから、その最終需要地は華僑の分布する東南アジア諸国に広がっていた。他方、台湾は戦前から本道産スルメの主要輸入先であり、戦後も香港から再輸出されていたが、昭和26年に実施されたバナナ・リンク制(バナナの輸出とスルメなど海産物の輸入をリンクさせた貿易制度)によって日本からの直輸入が実現し、スルメ輸出総量に対する比率も29年で36パーセントを占めるに至っていた。もっとも30年に同制度が廃止されたことから輸出も大きく減少させている(表2−10)。
函館港からのスルメ輸出は29年に再び神戸港に凌駕され、以後急速な減少に転じていったが、その要因は、第一に函館港の場合、寄航船の回航数が少ないため輸出中継地の再輸出におけるタイミングに合わせた積出やスルメ仕向先の消費に応じた計画的な積出が困難であること、第二に産地直積みをすると1船当りの積出量が多くなり、海外相場の撹乱要因となる懸念があること、それには昭和27・28年の函館直積みによる無計画かつ大量輸出が香港相場の大暴落を招き、輸入業者から敬遠されたことも関係していた。第三に産地直積みよりも他港経由の船積みの方が取引に妙味があること、第四に「アンダー・バリュー(決済の)操作を行う場合、神戸在住の海外指定店において日本円の操作がつきやすい」ことなどであった(同前)。 スルメ輸出は昭和30年代に入ると中国産(実態は北朝鮮産)および韓国産スルメの台頭や日本における産地高などによって減少し始め、函館港からの直輸出も昭和30年を最後に姿を消していったのである。 |
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