通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第3節 函館の産業経済の変貌
2 「イカの都市」の「スルメの時代」

スルメを基底とした函館の産業経済

スルメの加工業と産地形成

スルメの流通と集散市場

スルメの輸出と輸出港

スルメの先物取引と函館海産物取引所

スルメ時代の終焉

スルメの流通と集散市場   P389−P394


店頭に並んだスルメ(「道新旧蔵写真」)
 「北洋物」取引の全盛にあって影に隠れた観もあったが、函館は戦前から全国最大のスルメの集散市場として、またその移出・輸出港として展開してきたところであった。戦後もスルメ加工の急激な増大や「北洋物」からスルメへの取引の傾斜などを背景に集散地としていちはやい再開を果たしているが、本格的に動き始めるのは経済統制の撤廃と輸出が本格的に再開される昭和25年4月以降からである。つまり、統制解除によって戦中から逼塞してきた旧海産商が蠢動してきたことにあいまって、それまでの統制会社に代わってスルメ取引における主導権を急速に回復していったからにほかならない。
 そうした海産商のなかには委託業者の宮口、木村(丸王)、丹羽、石塚、安達、さらに移出業者の佐藤(丸日)、川端、丸山、本間(山文山本)、阿部、安達などの旧有力商達が含まれ、それらは統制解除半年で道南産スルメの半分の100万貫を取扱うまでに至ったのである。また、そうした海産商の復興によって函館海産商同業組合も再結成されたのであった(昭和25年11月22日付け「道新」)。
 函館のスルメ集散市場は前述の海産商の復活やスルメの増産を背景に昭和20年代なかばから30年代初頭にかけて全盛期を迎えていくことになるが、それを担っていたのが前述の地元海産商をはじめとした商社の出先機関、北海道漁業共同組合連合会(道漁連)および各漁業共同組合(漁協)、加工組合、仲立人などであった。
表2−9
スルメの委託移出業者(昭和30年)
  地元商社 道外出先商社 合計
移出業者
委託業者
52
20
11
1
63
21
72
12
84
北海道水産部編『いか漁業の経済分析』より作成
 主力となる地元海産商の軒数は委託業者と出荷業者を合わせて72業者(30年)であり、業態の内訳は委託業者の20業者に対し移出業者の52業者であった(表2−9)。委託業者は加工業者等からスルメを集荷する生産地問屋で、その呼び名も集荷が委託方式でなされたことに由来していた。他方の移出業者は前述の委託業者等から買付けたスルメを出先機関に販売ないしは消費地に出荷する積問屋であった。両者は戦前まで判然と区分されていたが、戦後は集荷と出荷の両方の業務を営む者が増えつつあった。大手業者の場合、委託業者12業者のうち5業者は出荷を兼業する者であり(残る7業者は専業)、同様に移出業者13業者のうち5業者は集荷を兼業する者であった。つまり、大手25業者のうち10業者が集荷と出荷の両方を併営していた。いうまでもなくこの大手25業者は函館海産商界の主導的勢力であり、それらはまた函館海産物取引所の仲買人・一般会員を兼ねることで現物・先物両面からスルメの取引および相場に大きな影響を行使していた。さらに地元の移出業者と共にスルメの買付けや移出において重要な役割を果たしていたのが商社等の出先機関であった。それらは神戸の海産物貿易商社や各地の中央卸売市場卸売業者等の支店・営業所であり、30年で12店を数えた。また、委託業者と出荷業者の間の取引や出先機関の買付けの斡旋をおこなう仲立人も30年で29人と、多数活躍していた(北海道水産部編『いか漁業の経済分析』)。
 図2−23は、函館におけるスルメの流通経路である。この経路はかなり錯綜しているが、それは基本的に集荷に係る過程、集荷機関と出荷機関との取引の過程、および出荷に係る過程から形成されていた(同前、以下の記述も断りのない限り同書による)。
図2−23 函館におけるスルメの流通経路図

『いか漁業の経済分析』、『イカ漁業の経済構造』より作成
 まず、集荷においてその業務に当っていたのが委託業者、移出業者、商社等出先機関および道漁連であった。それらの集荷比率(昭和25年から29年の推定)は委託業者が55パーセントと過半数を占め、ついで移出業者と商社等出先機関が合わせて30パーセント、道漁連が15パーセントと、委託業者を主体に商人系が圧倒していた。委託業者等の商人系における集荷先は、産地仲買人、漁協・加工組合、加工業者・一貫業者、小口集荷人等であった。
 道南等の生産地においては漁協と産地仲買人を中心に集荷(取引)がおこなわれ、そうした集荷を促進するため、集荷先に対し着業・集荷資金の融資や販売時における決済の迅速化・倉敷料の免除などの優遇措置が図られていた。とくに委託業者においては現物担保で時価の80パーセントを日歩2分4厘から2分7厘の範囲で融資をおこなって集荷についての特別の配慮をしていた。
 集荷の方法はおもに委託もしくは売仕切によっておこなわれていた。委託による方法は2通りあった。ひとつは買い手側が売り手側から預かった製品を倉入れして適当な時期に成行相場で仕切って販売し後日決済する取引で、その際販売手数料として22.5パーセントを徴収するというものであった。もうひとつは製品を倉入れした時点で時価の80パーセントを一時仮渡金として融資し、後日成行相場で仕切って販売した時に決済する取引で、その際22.5パーセントの販売手数料と日歩2銭4厘から2銭7厘程度の金利を徴収していた。
 このような道南等の集荷事情に対し函館市内における集荷先はかなり異なっていた。集荷先比率(昭和28年から30年の平均)では加工業者・一貫業者からが71.4パーセントを占め、ついで加工組合(函館水産加工協同組合)からの22.5パーセント、漁協(函館市漁業協同組合)からの6.1パーセントとなっていた。加工組合の比率が比較的高かったのは、同組合が組合員の製品を全量集荷して委託・移出業者に成行販売する方式が採られていたことによる。また、漁協からの比率がもっとも低かったのは、組合員である一貫業者のなかに仕込関係などによってつながりのある委託業者や移出業者と直接取引する者が多く、漁協に出荷する者が少なかったことによる。ちなみに漁協組合員による生産のうち漁協が集荷していたのはわずか15パーセントに過ぎず、残り85パーセントは商人系に直接販売されていた。集荷の方法は道南等の生産地の場合と基本的に同じであった。
 商人系の場合に対し道漁連における集荷先は漁協であったが、漁協から道漁連への出荷率は共販運動の推進にも関わらず必ずしも芳しいものでなかった。昭和29年度における全道のスルメ生産54万俵に対し漁協の集荷率は42.4パーセントであったが、漁協で集荷した22万俵のうち道漁連に出荷されたものは3分の1に過ぎず、残り3分の2は漁協から函館の委託業者や移出業者に直接販売されていたからである。したがってスルメの総生産に対する道漁連の集荷率はわずか14.2パーセントに過ぎなかった。このように集荷率が低かった理由は、漁協からの集荷において函館海産商に比べ劣勢な競争を強いられていたからであり、函館海産商においては既述のごとく漁協からの集荷にあたって資金融資などにおいて特別の配慮が図られていたためである。
 次に函館に集荷されたスルメはおもに集荷機関から出荷機関に供給されていたが、それは委託業者・道漁連から移出業者・商社等出先機関に対する販売、および移出業者から商社等出先機関に対する販売から構成されていた。
スルメ全体の55パーセントを集荷していた委託業者は函館市内外の加工業者、仲買人、漁協などから委託販売を受けたスルメを現物で移出業者や商社等出先機関に売り繋いでいた(一部買付けもある)。この際の販売手数料は2パーセントから2.5パーセントであり、値決めは市況に応じて成行(なりゆき)、指値(さしね)、計(はからい)のいずれかによっておこなわれていた。同様に道漁連の場合は集荷したもののうち、80パーセントを移出業者や商社等出先機関に販売していた。
 さらに移出業者は委託業者、加工業者、漁協、仲買人などから買付けたスルメを消費地への出荷と共に商社等の出先機関にも販売していた。
 こうした委託業者と移出業者・商社等の出先機関との取引、あるいは移出業者と商社等の出先機関との取引においては仲立人が売買の斡旋にあたっていた。そこでの仲立口銭はおよそ7厘であった。なお、海産物取引所では開設当初にスルメの実物取引もおこなわれていたが、2年目以降はほぼ姿を消している。しかし同所の場合、先物取引における現物受渡のケースも多く、会員であった委託・移出業者および商社等出先機関の間で現物がかなり流通していたことになる。ちなみに同所における出来高に対する受渡高の比率は26年度から30年度の5年間で9.1パーセント(4万2344枚)にのぼっていたからである。
 最後に道外などへの出荷にあっていたのが移出業者、商社等出先機関、委託業者、道漁連等であり、主力となる移出業者および商社等出先機関の2者だけで出荷全体の80パーセントから90パーセント前後を取り扱っていたと推定される。両者からおもに本州方面の中央卸売市場や問屋筋を中心に委託もしくは荷為替による買取などの方法で出荷・販売されていた。道外には輸出用も含めて全道生産量の80パーセント前後(昭和28年から30年)が移出され、その半分以上が東京・大阪・神戸の3大市場に仕向けられていた。出荷はおもに鉄路を利用しておこなわれていた。
 しかしながら隆盛を極めてきた函館のスルメ集散市場は、昭和28年秋から翌29年春にかけた有力商社や老舗の倒産、さらに31年の大凶漁による打撃とその後におけるスルメ生産の減退などを背景として急速に衰退していったのであった。
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