通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 ブルガーニン・ラインの設定と日ソ漁業条約 |
ブルガーニン・ラインの設定と日ソ漁業条約 P371−P373 北洋母船式サケ・マス漁業は2年間の試験操業をへて、本格操業が開始されたことは第1章第3節で述べたとおりである。昭和27(1952)年に3船団、独航船50隻から始まったものが、30年には、14船団、独航船334隻と急速な拡大をとげた。船団の増加にもかかわらず漁獲成績が好調であったことから、31年の許可を巡る業界の運動は一段と過熱することになった。水産庁に提出された許可申請は、アリューシャン海域には14母船、独航船404隻、調査船78隻、オホーツク海域には15母船、独航船378隻、調査船68隻、許可申請は合わせて29船団、独航船782隻に達した(日本鮭鱒漁業協同組合連合会編『さけ・ます独航船のあゆみ』)。それに対し、30年10月河野一郎農林大臣は、北洋漁業を日魯漁業、日本水産、大洋漁業の3株式会社で系列化するという内容の北洋漁業の再編構想を明らかにした。これは、拡大路線を続けてきた母船式サケ・マス漁業に歯止めをかけ、弱小経営の整理統合を進めて、母船式サケ・マス漁業の健全化を図ることを目的にしたものであったが、29船団という多数の許可申請のなかから、経営に不安があるものを除いて、日魯、日水、大洋の実績3社に系列化して、業界全体の再編成をめざすものであった。系列化構想は、実績3社以外の各社から強い反発を受けたが、水産庁は全体の調整をはかり、アリューシャン海域は現状維持とし、新規会社の申請は認めない方針を確認して、12月7日、31年の許可方針を発表した。かくして、アリューシャン海域には母船12隻、独航船315隻、オホーツク海域には母船7隻、独航船185隻の出漁が決まった。前年に比較して、母船が14隻から19隻、独航船が234隻から500隻と急増して、船団規模は一挙に拡大されたのである(同前)。 ところが、年明けの31年2月10日のモスクワ放送は、ソ連政府が、公海を含むソ連極東海域におけるサケ・マスの漁獲に対し、一定の規制措置をとる準備をしていることを報じた。規制措置を講ずる根拠として、報道では「日本漁船によって張られた大量の漁網は、さけの移動通路を完全に塞ぎ、このため、昨年には、カムチャツカ、オホーツク海沿岸の各河川には、正常な繁殖に必要なさけの十パーセント乃至十五パーセントしか入ってこなかった」ことをあげた(三浦桂祐「調整水域の性格探求」『水産界』)。 そして3月21日、先にモスクワ放送が伝えていた、ソ連極東水域におけるサケ・マスの漁獲規制に関するソ連閣僚会議の決定が発表された(昭和31年3月22日付け「道新」)。これには、カムチャツカ半島とクリル諸島(千島列島)周辺の公海上に「サケ・マス漁撈調整区域」(ブルガーニン・ライン)を臨時に設定すること、同水域内の漁獲は50万ツェントネル、約2500万尾に抑えること、水域内の監督統制は、同国の漁撈監督機関があたることなどが決められていた。この決定は、戦後再開以来、一貫して拡大を続けてきた、日本の母船式サケ・マス漁業に対するソ連側の対抗措置ということになるが、この「ブルガーニン・ライン」の設定を契機に(図2−17)、日本の北洋サケ・マス漁業は重大な転機を迎え、同時に日ソ両国の新たな漁業関係をつくり出す契機になった。
またこの年の交渉で、ブルガーニン・ライン内の漁獲量が6万5000トンに決まったことから、先の許可方針で決めていたオホーツク海域(西カムチャツカ)の7船団全部の出漁が不可能になり、そのうち、2船団をオリュートルの新漁場に移し、オホーツク海域には2船団を残して、3船団を削減し、独航船については、系列別に船団の再編成をおこない、500隻はすべて出漁することになった(表2−2)。河野農相の3社系列構想は、この船団再編の過程で実現したが、後発の母船会社は、日魯、日水、大洋の大手母船会社の系列に参加することになり、函館公海漁業、北海道漁業公社は大洋漁業系列に所属することになった(前掲『さけ・ます独航船のあゆみ』)。
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