通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 200カイリ問題による打撃 |
200カイリ問題による打撃 P379−P381 北洋漁場の縮小は深刻さを増していたが、それを決定的にしたのが、200カイリ問題である。昭和48年末に始まった第3次国連海洋法会議は50年3月の第3会期で、排他的経済水域(200カイリ水域)を含む、国連海洋法条約の草案が示され、これに基づく審議が始まることになっていた。ところが、52年に米ソ両国が、海洋法会議の結論を待たず、相ついで「200カイリ漁業専管水域」を設定し、日本もこれに対抗して200カイリ水域の設定に踏み切ったのである(北海道水産林務部『新北海道漁業史』)。海洋法条約草案では、沿岸国に対して、200カイリ経済水域内の生物資源に対する主権的権利を定めているが、河川にのぼるサケ・マス類については、産卵し生まれ育つための河川をもつ国(母川国)が、サケ・マスについて一義的利益と責任をもつ(母川国主義)ことを認めている。この母川国主義は、日本にきびしい減船をもたらすものとなった(同前)。 200カイリ水域設定後の母船式サケ・マス漁業は、新たな枠組みのなかで、米ソとの交渉を始めるということだった。昭和52年の日ソ漁業交渉は北方領土問題も絡んで日本にとっては大きな試練となり、何度も交渉が中断された。母船基地函館にとっても、この交渉の決着内容は死活問題といっても過言ではなかった。その模様を新聞からひろってみよう。 函館市が漁網・漁具、船舶修理、食料品、包装資材など259社(従業員約1万2900人)の関連企業を対象に実態調査をおこなったところ、74パーセントが影響を受けると回答した。また、母船式サケ・マス漁業のほか、北転船、ニュージーランド沖イカ漁など200カイリ枠に抵触する漁船は126隻1961人(地元およそ1000人)であり、大半は厳しい環境のなかにおかれるという(昭和52年1月26日付け「道新」)。3月2日付けの「読売新聞」は、矢野市長を会長とする函館市海洋法対策協議会が、関連企業個々の影響度を調査し、国や道にも働きかけて対策を講じるという旨の記事を載せている。さらに5月には市役所内に「二百カイリ対策本部」が設置され、水産加工業への融資面でのテコ入れや雇用促進のほか、各分野で派生が心配される問題に取り組むことになった(5月7日付け「毎日」)。
なお、アメリカとも、昭和52年に日米漁業長期協定が結ばれ、アメリカの200カイリ内での操業には厳しい条件変更がおこなわれた(前掲『新北海道漁業史』)。サケ・マス漁業については、日米加漁業協定の見直しが通告され、昭和53年に3国による漁業交渉がおこなわれ、これまでの自発的抑止区域にかわる禁止区域の設定や、操業日数についてなお新たな規制を受けなければならなかった(板橋守邦『北洋漁業の盛衰 大いなる回帰』)。 |
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