通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第1章 敗戦・占領、そして復興へ 教員組合の結成 |
教員組合の結成 P246−P248 昭和21年3月1日労働組合法が施行され、労働運動史に新たな1頁が開かれた。北海道の教育界でも、同法による組合結成の気運が高まり、同日付けで北海道教員組合の結成をみている。また、同年5月7日には、拡大改組大会が開かれ、「生活の安定と社会的政治的地位の確立」「教育の民主的革新」「青少年の福祉増進」などの綱領の決定をみている。その後、北海道教職員組合は、校長の組合加入をめぐるGHQ北海道軍政部の干渉を排除し、順調にその歩みを進めた。さらに、教育復興会議の設置を提唱、実現し、「国庫支弁によって新学制を完全に実施せよ」ほか4項目を決議し、新教育の推進に取り組んでいる(『北海道教職員組合史』)。函館では、昭和21年3月15日に函館市教員組合結成大会が大森国民学校で開かれ、教員組合運動の第1歩が印されている。結成後間もない昭和22年の初頭に、組合が直面した大きな運動に、2.1ゼネラルストライキ(2.1スト)があるが、函館における取り組みの経過を、若松国民学校日誌によってみていきたい(表1-49参照)。このストライキは、2月1日を期して、全国の官公庁労働組合を中心に産別会議(全日本産業別労働組合会議)・総同盟(日本労働組合総同盟)などの民間労働者を含めて数百万の労働者が参加して計画された大規模なものであった。同校の日誌に、ストライキに関する記事が現れるのは、1月27日のことである。以後、GHQの指令によりストライキが中止されたという事後連絡を終える2月7日までの10日余りの間に、「父兄総会」の開催によるスト支持の確保、スト期間中の学習対策、「父兄」あて文書の発送に対する児童の了解の取り付けなど、慎重な対応の模様が記録されており、地道な労働運動の発足を伝えている。 ところで、その後、昭和23年7月、「政令二〇一号」により、教員を含む公務員については、団体交渉権、争議権が否認されることとなった。
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